「……ここは…」
「あ、目が覚めましたか」 呟きを聞きとめ、薬品棚の整理をしていたキャリーが振り返る。 静かに戸棚の扉を閉めると、ベッドに近づいて患者に聞こえるよう僅かに身を屈めて言った。 「ここは医務室です。アルドさんは甲板で戦闘中、モンスターの攻撃を受けて海に落ちたんです。覚えてますか?」 「はい…何となく」 酸欠で薄れ行く意識の中で見た青は、空ではなく海の色だったのか。 起き上がろうとするアルドを、白い手がやんわりと止めた。 「一時呼吸が止まっていたんです。暫く安静にしてて下さい。処置が適切だったので、後遺症はないだろうとユウ先生がおっしゃってましたから大丈夫ですよ」 「処置…」 霞みかがった頭では言われた事が理解できなくて、オウム返しに繰り返す。 「人工呼吸と心臓マッサージです。医師が診る前に、これらの処置がしてあるかどうかで、生存率や運動能力の回復に大きな差が出るんです。水の紋章では外傷の治癒と体力の回復しかできませんから。ここの所、立て続けに心肺停止者が出たので、近々ユウ先生を講師に救命講習をやる事になりました。特にサポートメンバーは受講を必須にするそうですよ」 「そうですか…」 自分の心臓が止まったと聞いても今一ピンと来ないので、先週の記憶を手繰り寄せる。 仲間を庇って頭をしたたかに打ち付けたアスは、地面に仰向けに倒れ、びくりとも動かなかった。とっさに抱き起こそうとしたスノウに向けて、鋭い制止の声が飛んだ。 『よせ!動かすな!』 駆け寄って来たテッドの迫力に圧され、スノウが場所を譲る。 テッドはアスの額に手を当て、肩を叩いて数回呼びかけた。 『意識はなしか』 続いてアスの上着を肌蹴けて胸のサポーターを外し、口元に耳を寄せ、肺の動きと呼吸音と空気の流れを目と耳と肌で確認する。 『正常な呼吸なし。おい、お前!ユウ先生呼んで来い!』 『う、うん!』 指差されたスノウが、慌てて医務室へと走る。 テッドは二本の指でアスの顎を押し上げ、喉を反らせると、鼻を摘んで口移しに息を送り込んだ。 フー フー 送り込まれた空気が、アスの胸を押し上げる。その様子を視認した後、テッドはアスの胸の丁度真ん中に手を置いて、もう片方の手を重ねて組むと、掌の腹で圧すようにして心臓マッサージを始めた。 『1、2、3、4、5、6、7、8…』 30回まで数えて、再び人工呼吸を2回。マッサージを30回、人工呼吸を2回を繰り返す。 3回目のマッサージで、アスが自発呼吸を始めた。そこに丁度スノウに連れられたユウがやってきてアスを診察したが、もう自分のやることはないと早々に医務室に戻ってしまった。 テッドの処置は迅速で適切だった。感謝の言葉を述べるスノウに、テッドは「昔、小さな診療所を手伝ってたから」とぶっきらぼうに言い放って、ユウに続いた。 「でもアス様は流石ですね。ご自分がテッドさんに救われた事で心肺蘇生の重要性を感じて、密かに習ってらしたなんて。初めての処置とは思えない、落ち着いた行動だったそうですよ」 「え…僕を助けてくれたのは、テッドくんじゃないんですか?」 「ええ、アス様ですよ」 今日の他のパーティメンバーは、あの時と同じスノウとテッドだ。 医師並の手際で対応できるテッドがいるのに、初心者のアスが行ったと言う事は。 「…僕、やっぱりテッドくんに嫌われてるのかな…」 口にすると、胸の上で組んだ腕がずしりと重くなった。 邪険にされていても、嫌われてはいないと思っていたのに。 アスの時はあんなに素早く対応したのに、テッドは息の止まったアルドを前に、何もしようとしなかったのか。 そんなに…触れるのが嫌だったのだろうか。 「んー……私は現場に居合わせた訳じゃないから確信は持てないですけど、話を聞く限り、逆なんじゃないかなって思います」 「逆ってどういう意味ですか?」 人差し指で唇を押さえ、思案気に空を見つめていたキャリーが、アルドに向き直る。 「ユウ先生とお会いする前、私はとても腕の立つ外科医の先生の助手をしてたんです。どんな難しい手術でも、先生が患者さんを見捨てることはありませんでした。だけど一度だけ、先生がメスを握れなかった患者さんがいるんです」 「…それは?」 「先生の息子さんです」 「何故…一番救いたい人でしょう?」 「ええ、だからです」 キャリーは胸に手を当て、そっと目を閉じた。 「最愛の息子さんだからこそ、体にメスを入れる事ができなかったんです。どんな時も沈着冷静な先生が、あんなに取り乱した姿を見たのは初めてでした。先生は瀕死のお子さんを背負い、回復魔法をかけて貰う為、隣村の紋章師の元へ走りました。幸い一命は取り留めましたが、危うく手遅れになる所だったそうです。そんな危険な状態でも、先生はお子さんを手術する事ができなかった…。後に先生は自嘲気味におっしゃっていました。血まみれの我が子を目の前にした瞬間、頭が真っ白になった。普段なら眠っていても勝手に治療行為を行う体が、指一本動かない。全身の血が凍るとはこういうことかと」 キャリーが目を開ける。 「テッドさんはアス様の呼びかけにも答えず、アルドさんを凝視して石のように固まっていたそうです。見かねたアス様が心肺蘇生を行って、アルドさんが呼吸を始めると、テッドさんはその場に崩れ落ちてしまったとか。この話を聞いて、私ちょっとテッドさんに対する見方が変わりました。不器用な人ですね」 くすりと微笑ましげに笑って、キャリーはベッドを覆うカーテンに手をかけた。 「さあ、今夜はこのままここで休んでください。お大事にどうぞ」 患者を和ませる優しい笑みがカーテンの向こうに消える。 続いて医務室の明かりがギリギリまで絞られ、人が出て行く気配がした。どうやらとっくに消灯時刻は過ぎているらしい。キャリーはアルドが一度目覚めるまでついていてくれたのだ。 眠りを誘う薄闇と静寂の中で、アルドは言われた内容を反芻した。 テッドがアスを別格に思っている事は知っていた。他の宿星の前では絶対にしない態度を、アスには見せていることも。 テッドに特別扱いされるアスに、小さな嫉妬心を抱いていた。 そのアスとは違うベクトルで、自分も別格に思って貰えている? 「そんなの僕の都合のいい勝手な解釈だよね。僕はテッドくんに嫌われているんだから」 期待しないよう自制しようとする感情とは裏腹に、思考の一部が変に理論的な答えを並べ立てている。 キャリーがあんな話をしたと言う事は、少なくとも彼女自身もそう思っているのだろう。 「…どうしよう、ドキドキして来た」 止まったばかりの心臓には、ちょっと刺激がきつい話だった。 アルテド祭に投稿した作品なのに、テッドの出番は回想だけという(苦笑) しかもテドヨンっぽいし、ちゃっかりスノ主も入ってるし(スノウを庇ってじゃなきゃ、アスがこんなミスする筈が無い)。 先日受けた救命講習の覚書作品だったりもします(笑) |