本当の強さ



知っている人間と過ごした、知らない光景を夢に見る。夢は懐古か願望か。
真夏の昼間。ギラギラと照りつける太陽は眩しく目を眩ませるのに、肌を焼く暑さとは無縁だった。夏の風物詩の虫の声どころか、耳に痛いほどの静寂が、空気の重さを倍増しにして肩に圧し掛かってくる。
『おにいちゃん』
呼びかけられて振り返ると、愛らしい笑顔を浮かべた子供が小さな手を自分に向かって伸ばしていた。
あの時と同じように。
ぎくりと強張った心とは裏腹に、頬は少年に負けない笑みを返して、手袋をした己が両手が当然のように少年へと差し伸べられる。
―――抱きしめる前に、炎が上がった。




「それを肩にかけるがいい」
ふわりと羽のように両掌に降りてきた、重く厳つい鉄の鎖の束に、テッドは訝しげに相手を見上げた。
声がしたのは遥か上空で、声の主の顔は闇に融けている。ぼんやりと浮かび上がる4対の瞳が、視線の目印だった。
「何だよ、これ」
鎖はテッドの手の中に収まった途端、重力を取り戻した。全体の三分の一ほどの長さを残して、残りが輪になっている。
「あんた流のアクセサリーか、船長?生憎と俺には、こんなのを付けて喜ぶ趣味はない。大体何だよ、この重さ。肩にかけろって言うんなら、もっと軽くてお洒落な奴にしてもらいたいね」
軽口を叩き、鎖を床に落とそうとしたテッドの手を、続いた声が止めた。
「飾りではない。それには封じの意がある。現世(うつしよ)の迷い、残留の念を輪の一つ一つが封じ込めるのだ。重いのは汝の業の深さ故。迷いを持たぬ者には、その鎖は空気の様に軽い」
「………そりゃ重い訳だ」
皮肉気に唇を歪め、じゃらりと手に冷たい鎖を改めて握り直す。
「で、これをかけるとどうなるって?絶えず身につけることで、自分の業の深さを自覚し続けろってか?罪人の足につけられた錘みたいに」
否、と静かな否定が降り注ぎ。
「鎖は苦悩を封じる。――穏やかな眠りが訪れるだろう」
「…………」
知らず、鎖を握る手に力がこもった。
時の干渉を受けない霧の船では、睡眠は必要としなくなる。眠る事は勿論可能だが、疲労した肉体と脳を休める為と言うより昼寝の感覚に近い。
浅い眠りは夢を呼び、夢は仕舞いこまれた記憶を歪めて曝け出す。夢に見る。見てしまう。懐かしい人々。
夢で彼らに会えるのは幸せなことの筈なのに、紡がれる物語は胸を突くものばかり。後一歩で届かなかった。間に合わなかった。すり抜けてしまった。去って行ってしまった。
目覚めた後に残るのは、懺悔の念と――堪らない苦しさ。
だが眠りに逃げ込まずにもいられない。澱んだ時間の中で、たった一人で「人」であり続ける為には、うたかたの慰めが必要だ。
――いっそ「人」であることなど、忘れてしまえれば。
自嘲を唇に乗せ、鎖を握り締める。それが出来ていたら苦労はしない。
「気を使ってくれたって訳か。……ありがたく使わせてもらう」
「これも着るがいい」
上空で再び空気が揺らめいて、先ほどの鎖同様、白い布がゆっくりと下りてきた。テッドの手に受け止められた途端、本来の布へと戻ったそれは、炎の縁取りがされたフード付のローブだった。
「これには何の効能があるって?」
「体温を保持する。我は感じぬが、人間である汝にはここの空気は厳しいのであろう」
「重ね重ねどーも」
四六時中霧を纏っている所為か、船の中は湿度が高く、ひんやりとしている。まるで氷室の中のようだ。
夏場ちょっと涼みに来るにはいいが、長期滞在には向かない。凍えるほどではないものの、ずっといたら屍蝋(しろう)になりそうだと思っていた。
たっぷりと布地の取られたローブを着込み、重い鎖を両手で掲げて輪を首に通す。ローブは成る程、素晴らしい防寒着だった。先ほどまで肌を刺していた冷気が、完全に遮断された。
鎖は肩にかけてしまうと、思ったよりも軽かった。腕を動かしてみても、邪魔にならない。むしろローブの裾の方が気になるくらいだ。
「へぇ、流石だな。デザインはともかく、機能は確かだ」
その場でぐるりと回って、全身を見下ろす。
「他に不都合があれば言え。我には人間の生態は判らぬ」
「今のとこは足りてる。また何かあったら頼むよ。サンキュな」
片手に消えない松明を掲げ持ち、身を翻して自室へと引き上げるテッドの背を、導者はじっと見送っていた。


霧の船に於いて、テッドの部屋は唯一生き物の存在を感じさせる場所ではあるが、やはり生活臭は希薄だ。
室内には簡素な木のベッドがぽつんとあるだけだ。天井知らずのだだっ広い空間に落ち着かなかったテッドが、船長に作って貰ったこの部屋は、出入り口のドア以外は全て壁で覆われていて、中の者に軽い閉塞感を与える。
ここにいると息苦しさを覚えるのと同時に、安心した。
自分の存在を実感する。この部屋以外では自分がちっぽけ過ぎて、宙に放り出されたかの様な頼りなさを感じるのだ。
硬いベッドに横たわり、目を閉じる。最初は憧れのスプリングが利いたベッドを用意してもらったのだが、柔らかすぎて体が沈んでしまい腰を痛めたので、慣れた木のベッドに変えた。
ここでは何もすることがない。生きる為に必要な、仕事も義務も人との関わりも、食べる楽しみも料理を作る楽しみも。
自然、眠りに逃げる時間が多くなる。
有り余る暇にあかせて、四六時中うとうとと現と夢の境をまどろんでいると、そのうち自分が融けていくような気がする。世界との境界線がなくなる。輪郭が薄れていく。あぁ、自分が「消える」。
消えてしまえばいい。融けてしまえばいい。「自分」なんて要らない。こんな醜い自分は残らなくていい。
――久しぶりに夢を見なかった。



「それの具合はどうだ?テッドよ」
迫ってきた巨大な鍵爪に呼応するように、首の鎖がふわりと浮いた。それはほんの一瞬の出来事で、すぐにテッドの肩に音もなく元通りに収まる。
「ああ、凄いな。付けたら本当に夢を見なくなった。流石だよ」
「その割には、顔色が優れぬようだが」
「へぇ、心配してくれてんの?」
意外な事を聞いた、という風にテッドが肩を竦めて笑う。
導者の指摘通り、面やつれした生気のない頬をいびつな笑みで歪ませて。
「ああ、最初の日以外、寝る時はこいつは外してる。普段は重宝してるぜ。お陰でこの暗くてじめじめしてて寒くて、乾いた空気と暖かな太陽と縁のない不快指数の閾値を振り切った船に閉じ込められてても、鬱にならずに済む」
「夢から逃れたかったのではないのか?」
感情のない声に、少しだけ疑問が混じる。
それが何だか人間臭く感じて、テッドは自嘲の笑みを深めた。
「逃げたいさ。眠れば決まって同じような夢を見る。目覚めた後、ふとした瞬間に夢の内容を思い出して、胸が締め付けられるような痛みを覚える。だけどな、痛みもまた逃避なんだ」  
「……汝の弁は理解できぬ。人間は皆、汝のように難儀なのか。それとも汝が特殊なのか」
「さぁ。気になるんなら自分で調べるんだな。俺をこの船に呼んだみたいに、別のサンプルを連れてきて、比較してみるといい。データ取る手伝いはしてやるぜ」
きっと一生あんたには理解できないだろうけどな。
捨て台詞めいた呟きに含まれた悲哀は、誰に向けたものだったのか。


穴蔵動物の巣穴のような部屋に戻り、鎖を外してベッドに横たわる。
目を閉じて、今日も自虐と懐古の旅に出発だ。
誘われるまま眠りの腕へと身を委ねれば、その先に待っているのは血みどろの光景。
恐怖に見開いた、瞳孔の開ききった瞳。
力なく開いた唇の隙間から溢れる、濁った泡。
血の気が失せて土気色になった顔に浮かぶ笑み。
体の一部が欠損した状態で、不都合なく歩く肉塊たち。
額を、唇を、腕を、胸を、腹を、全身を赤い糸で染め上げて、それこそ赤以外の色をみつけることの方が難しい状態で。
髪が抜け、目は落ち窪み、骨と皮ばかりの骸骨のような姿。
瑞々しい肌が、肉の臭いを漂わせてじゅくじゅくと熔けていく。
――おにいちゃん
柔らかな黒髪をチリチリと燃やしながら、小さな笑顔が近づいてくる。
――毎日遊んでくれるって言ったよね。ずっとこの村にいてね。どこにもいかないでね。
歩きながら、髪が燃え尽きた。皮膚が焦げた。炭化した腕がテッドの服の裾を掴む。最早目も鼻も判らない、ぽっかりと空いた口から漏れた、やけに鮮明な声。
――これで満足?
『…………!』 
暗闇にぽぅっ…と仄かな光が灯って、かつて少年だったものをふわりと包み込む。
やがて光は女の姿になった。女は炭になった我が子を優しく抱きしめ、愛しげに子守唄を歌う。
――おやすみ、愛しの天使…やすらかにおやすみ…
歌に誘われるまま、炭の子供が穏やかな眠りに落ちる。
女の視線は子供に注がれたまま、声だけが背後のテッドに向き直った。
――早くこの村を出て行って。あなたが悪いんじゃないことは判ってる。数百年噴火した事のなかった神の山が、あなたがこの村に来た途端、予兆なく爆発した事も、大人たちが隣村との合同祭の準備で留守にして、村には老人子供しかいなかった事も、全てがあなたの持つ紋章の所為だと言う事は……判っているわ。
『おばさ……』
思わず喉を突いた自己弁護の呟きに、女は顔を上げ、テッドを振り返った。
憎しみのこもった激しい瞳で。
――これで満足?
ぶわっと突然テッドの背後から吹き付けて来た大きな風の塊が、暗闇を舐めて行くと同時に新たな景色が広がる。燃え盛る家々、上がる阿鼻叫喚、正面の山が赤い炎を吐いている。地獄絵図。
色とりどりの端切れを纏わせた大小の墨人形たちが、両手をだらりと前に出し、ふらつきながらテッドに迫ってくる。
――これで満足?
――これで満足?
――これで満足?
――我らの命を奪って、満足か?
――我らはお前の持つ紋章の糧となった。贄となった。我らの魂はお前の右手の中だ。生き残った者はお前を恨むだろう。生涯恨み続けるだろう。貴様という真の紋章持ちがいた事を、呪い続けるだろう。決してお前を忘れぬ。満足か?
『違う……っ』
――思っただろう?手に入れた、と。お前の故郷によく似ていた我らの村。欲しいと願っただろう?――たとえ屍でも。我らが同胞の魂を喰らって、紋章とは別にお前自身が悦を感じただろう?子供が宝物を他人に奪われる位ならと、散々愛しんだおもちゃを容赦なく叩き壊すように、お前は我らの命をもぎ取った。
『違う……』
耳を塞ぎ、声の限りに否定を叫ぶテッドに、黒い塊は崩れ行く腕を伸ばし。
――愛してやろう。お前の望むまま。お前が満足するように。
――それが魂喰いの紋章の宿主に愛された、我らが宿命(さだめ)


「――っ……」
びくんっと自分の体が跳ねた衝撃で目が覚めた。
額に滲む冷たい汗を無造作に拭い、肺に溜まった重い空気を吐き出す。
いつも同じ夢だった。紋章が屠ってきた魂たちが、実際の状況とは場所を変え設定を変え、テッドに詰め寄ってくる。
焦げた幼子とその母親の登場回数が多いのは、一番新しい記憶だからだろう。
彼らはテッドが霧の船に乗る直前に、厄介になっていた村の住人だった。
怪我と疲労でボロボロになっていたテッドを、少年と母親は温かく迎え入れ、傷の手当てと食事と寝床を与えてくれた。
家族の一員として、愛してくれた。
その彼らに対し、紋章は容赦なく死神の鎌を振り下ろした。
ソウルイーターの事を知らない彼らが、テッドを責めるはずがない。
だが変わり果てた我が子を抱きしめ号泣する母の叫びに、テッドは己の醜さを見せ付けられた。
夢の中での屍たちの言葉は真実だった。忘れて欲しくない。時間の流れに埋もれ、忘れ去られてしまうなら、村を滅ぼした悪鬼としてでも記憶に留めておいて欲しい。
いずれ少年もテッドを置いて大人になる。共に歩んではくれない。無邪気に慕ってくれていた目が、年をとらない化け物、呪われた死神と、排他の色に染まる様子など見たくない。
好意が嫌悪に変わる前に、壊してしまいたかった。 
大きな爪あとを、刻み込みたかった。
愛した彼らが、テッドの仕打ちに嘆き、涙する。
心の傷が癒えることなく、テッドの事で苦しみ続ける。
何て自分勝手な。何て汚い。
あの日、村が火砕流に飲み込まれた忌まわしき死の日。
紋章の本能の赴くままの惨劇に絶望しながらも、心のどこかで、テッドは確かに冥い愉悦を感じていたのだ―― 


その後、逃げるように村を後にしたテッドは、彼方から聞こえて来た自分を呼ぶ声に導かれて海へと出た。
冷たい霧に紛れて、薄暗い海に一艘の船が浮かんでいた。
船長である導者は、苦しみからの解放を約束した。愛しい者の魂を奪うしかない紋章の業からも、強大な力と引き換えに真の紋章持ちに課せられる、紋章を放棄した後の死の運命からも。
テッドは船長の申し出を受け入れた。
背を追う嘆きと呪いの声から逃れたかったのではない。
この身を世界から隔離したかった。これ以上人の世で、自分の醜さを正視するのが耐えられなかった。
親に叱られた子供が、僅かな隙間に身を埋めて震えているように。
ただ、誰の手も届かない場所に行きたかった。
そのくせ人の世を忘れ切る事ができなくて、夢へと手を伸ばす。
苦しい。ただ存在し続けることですら、こんなに苦しい。
だが終わりを望む勇気もない。






あれから数十年の月日が流れ、紋章は再びテッドの手に戻って来た。
小船を出してくれた漁師に謝礼を渡し、翌日また迎えに来てくれるよう言いつけて靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくりあげ浅瀬へと足を下ろす。ここには桟橋などという気の利いたものは存在しないらしい。
豊かな緑に覆われた小さな島だ。らしいな、というのが最初の感想。
漁師に教えられた通り、島の中央へと伸びる道をまっすぐ進む。暫く歩くと、風に乗って微かに人の声がして来た。 
鈍りそうになる足を叱咤し、顔を上げる。もう目を背けないと決意したのだ。
得るか壊かという子供じみた短絡的な思考回路に、新たな道の存在を指し示してくれた人の、ここは生まれ故郷。
手の中の形見の片割れが、ほんのり嬉しそうに光を反射する。
「戻って来られて嬉しいか?」
緑の煌きに、笑って話しかける。満面の笑みを浮かべて大きく頷く姿が見えて、テッドも笑みを深くした。
ここに来た目的は、形見のピアスをこの地に埋める為だった。故郷へ帰れずに死んだ彼を、先祖の魂が眠る地に連れてきてやりたくて。
もう片方は、途中で海へと委ねて来た。テッドが再びこの世に生れ落ちた海域、霧の船とチカル号が衝突した地点、彼と初めて出会った場所だ。
彼の魂は紋章に喰われた。だがかつての人々のように、悪夢となってテッドの前に現れる事はない。
夢の中ですら、彼は限りなく優しい。
それはきっと彼と二人で旅した日々が、テッドの中に広く深く根を張り、弱い心をしっかりと支えてくれているから。
もう夢を怖れない。悪夢に自虐を求めない。
いつも彼から香っていた、緑の匂いを含んだ風が、テッドの頬を柔らかく撫でていく。
彼が教えてくれた強さを胸に抱き、新たな道へと一歩を踏み出す――







4祭後夜祭に投稿。
船長ハンターさんと船長を出すと約束したので、霧の船に乗った理由をば。
母親が歌っていた子守唄は、某懐かしのアニメに出てきた奴だったりします(笑)歌詞多分これであってる筈…



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