差し込む月明かりだけを頼りに、静かな戦いが繰り広げられている。 白黒の盤を挟んで向かい合う二人の横顔は、趣味の域を超えたハイレベルな戦況とは裏腹に平静だ。 手慰みのごとき軽快さで、双方ほぼ間髪入れずに次の駒が動く。 「私をこんな茶番に巻き込んで、どういうつもりだ」 「茶番とは?」 チェス盤から顔を上げずに、マッシュが答えた。 問いには問いで返せ、己の内心を気取らせるな――かつての自分の教えを忠実に守っている甥の、だがその態度がレオンを苛立たせた。 「この軍は私の力を必要としていない」 深みのある声に続いて、黒のクイーンが白のルークを獲った。 「私の影に埋もれていた継承戦争の時とは違う。実践は人を磨く。今のお前なら、助力など請わずとも充分勝利を齎せるだろう。わざわざ軍主を使いに立ててまで、私を引き込んだ理由は何だ?私は軍師の道しか歩けぬ男だ。だがこの軍には既にお前という正軍師がいる。あの軍主も私の意見など求めてはいない」 手紙の配達を依頼しておきながら自身も姿を現したマッシュを、軍主の少年は不快も疑問も見せる事無くすんなりと迎えた。 マッシュもまた、彼のそんな態度を判っていたようだった。 眩しいほどの絶対的な信頼関係。軍主と軍師の間において、その有効性を知りながらレオンが築こうとしなかったもの。 「あなたが必要です。少なくとも私にとっては」 「お前にだと?」 「そうです」 マッシュの声には乱れがない。昔はただの大人しい男だったが、年と経験を重ねて安定した落ち着きが備わった。 だがこの甥が本当は、兄に似てひどく熱い男だという事を知っている。 貴族に生まれながら国に反旗を翻すという、男でも躊躇う道に果てた姪を見ても想像できる。 「あなたが近くにいて下さる事で、私はあなたに負けまいと奮起する。どんな苦境に立たされても、あなたのような策だけはとるまいと自分を律することができる」 「私は反面教師か」 「はい。ご不満ですか」 上げた顔と視線がぶつかる。 細い目が鋭さを帯びた。 「……ふん、一端の口を利くようになったものだ」 吐き捨てるように呟いて、レオンは再び盤へと視線を落した。黒のポーンが動く。 「帝都に攻め入るには、残る二つの盾、クワバの要塞と水上砦シャサラザードのどちらかを落さねばならないが、クワバの要塞に詰めるアイン・ジードは名の知れた武人。一方シャサラザードのソニア・シューレンは、腕が立つとは言え所詮は母親の跡目相続で将軍に付いた成り上がり」 「そう言われない為なのでしょうね。就任した頃のソニア将軍は、誰よりも己を鍛える事に執心であったと聞いています。今ではキラウェア将軍を知る者に、母親を見ているようだと言わしめるだけの実力を兼ね備えられたとか」 「安全な国の中で剣の腕は磨けても、いざという時の決断力、判断力は実践でしか身に付く事はない。キラウェア・シューレンは六将軍の中で最年長だった。女の身で長く地位に留まるには、男以上の気迫と肝がいる。娘はまだまだその域に達してはいない」 「これは手厳しい」 「最も、シャサラザードは船が無ければ攻める事もできない砦だが…。さて、どのような策を見せてくれるつもりだ、マッシュ」 「まるでシャサラザード攻略が決定であるかのような口ぶりですね」 「違うとは言わせん」 「否定しませんが」 白のポーンが、ビショップの道を開く為に捨て身で前へ出た。 すぐさま黒に奪われるが、ビショップはキングへと一歩近づいた。 「田舎にいても切磋琢磨はしていたようだな」 レオンが感心した声をあげた。 軍師を目指す者は、チェスを極めろと言われている。 8×8の升目の上で繰り広げられる擬似戦争。駒の進め方で、軍師の性質が伺える。 レオンが好むツーク・ツワンクは、パス不可のチェスに於いて、より悪い手を打つしかない状況に追い込むテクニックだ。自身は動かず、相手の自滅を誘う。 対してマッシュは、自分の駒を犠牲にする代わりに状況を好転させるサクリファイスのような策が多かった。 守りの要のクイーンが果敢に攻め込む様は、軍師にあるまじき行為である、主と共に戦場を駆けるマッシュの姿を彷彿とさせた。 「私はただ、子供たちに勉強を教えていただけです」 「将来軍師に成りうる子供を発掘して教育か?アップルと言う娘は、お前が引き取った孤児の一人だそうだな。資質は悪くないが、いかんせん軍師向きの性格ではない。以前お前が連れてきたシュウと言う子供は、見所があったが」 軍を離れたマッシュが、一度だけ弟子を伴いレオンを訪ねて来た事があった。 瞳に知的な光を宿す、聡明そうな少年だった。 「あの子供であれば、お前のいい補佐が出来ただろう。何故ここにいない?」 「私は彼に軍師として見限られましたので」 「なるほどな」 稀代の名軍師を前に、物怖じする事無く真っ直ぐ見据えてきた少年を思い出して納得した。 シュウの目は、これからセイカの片田舎に引き篭もろうという人間に付いていくには不釣合いな野心に充ちていた。 マッシュから学べる事は全て吸収してやろう。 そんな意気込みが伝わって来て、レオンは密かに頬を緩めた。 自分もこんな目をしていた頃があった。 知識欲と向上心に滾り、限界を極めようとしていた。 名軍師の称号はそれに付随したものに過ぎない。自分の掌の上で歴史が踊る快楽。軍師は剣も馬も持たず、頭脳一つで国を覆すのだ。 「今のお前を見れば、あの子供も離反を後悔する事だろう。寄せ集めだった解放軍は、お前が手を貸してから一つの組織としてみるみる成長し、帝国軍と対等に戦うまでになった」 「シュウは私よりもあなたの考えに共感していました。解放軍にいたら、あなたに師事を請うかもしれませんよ。彼も今頃は立派な青年になったことでしょう。月日が流れるのは早いものです。私も継承戦争の時のあなたと同じ年になりました」 目を細めて過去へと想いを寄せながら、マッシュは窓の外の月を見上げた。 叔父と甥で王座を争った継承戦争は、バルバロッサの勝利で終わった。 レオンに言わせれば、ゲイル・ルーグナーの行動は先の読めない無謀な反乱だった。 父帝の遺言で帝位を弟ミケランに奪われたゲイルが、忠実な六将軍と帝国きっての名軍師シルバーバーグを従えたバルバロッサに、戦力、知力、指導力とどれ一つ取っても敵う筈はなかった。 帝位を取り戻すまでという契約だったゲオルグ・プライムが赤月を去った後、バルバロッサは残る五将軍と共に、内乱に乗じて攻め込んで来ていた都市同盟を退け、名実共に皇帝の地位に就いた。 その後数年で財政を立て直したバルバロッサを、人々は黄金の皇帝と褒め称えた。 ゲオルグに続き、六将軍の一人、水軍統領キラウェア・シューレンが事故で落命、娘が跡を継ぐという交代劇があったものの、皇帝とその傍に仕える勇猛な将たちの姿に、国民は豊かな未来を信じて疑わなかった。 カレッカの事件の後、常にカシム・ハジルの傍らにあった副軍師の姿が消えた事に気づくこともなく。 やがて新しく就任した宮廷魔術師が、戦中亡くなった愛妃クラウディアに酷似しているとの噂が立つと、人々は新しい希望に胸を躍らせた。 愛妻家で有名だったバルバロッサに、穏やかな笑顔が戻ってくる事を期待した。 だがその頃から、帝国は少しずつ傾き始めていく。 変化はまず、帝都から遠く離れた地で起こった。 警護の任を疎かにし、袖の下で私腹を肥やす軍人が増え、咎がないのをいいことに行為はどんどんエスカレートして行った。 堪りかねた村民が帝都に直訴するも、事務的な対応がされるだけで一向に取り締まられる事はなかった。 湖の水が干上がるように、じわじわと国の外周から内側に向かって皇帝への不満の声が上がって行く。 レオンはそれをカレッカで聞いた。人の寄り付かない廃墟であっても、声は届く。悪い噂ほど足が速い。 マッシュが帝国軍を出た数年後、レオンもまた帝都を離れていた。 軍師は戦があってこそだ。平定した国では力を揮う場がない。 戦を求めて他国に行く程意欲に燃えてもおらず、レオンはカレッカに移り住んだ。 懺悔や後悔の気持ちからではない。ここがこの国で唯一、人の寄り付かない場所だったからだ。 歴史に残る、カレッカの悲劇。 都市同盟に占拠されたカレッカの町を奪回すべく、帝国副軍師マッシュ・シルバーバーグが討伐隊を引き連れて彼の地に向かうも、彼らが到着した時は既に住民は一人残らず惨殺された後だった。 都市同盟の残虐非道な振る舞いに激昂した帝国軍は、一気に勢いを盛り返し、都市同盟を撃退した。 ――というのが歴史書に記された歴史だ。真実は罪悪感と言う堅固な鍵でもって、当事者の胸に深く沈められた。 「あの日、陛下の御前であなたは羊が必要だと言いました。スケープ・ゴート、身代わりの羊。あなたが洩らした呟きをその場で追求していれば、カレッカの悲劇は防げた筈でした。不穏さに気づきながら、私は手にした真実の欠片を吟味せず見過ごしてしまった。――恐らく、心のどこかで一度は私も考えた事だったからでしょう。当時、兵力も財源も窮地に瀕していた帝国は、これ以上戦いが長引けは、例え勝利しても甚大な被害を被ることが判っていました。ですが、決してそれを大義名分にしてはならなかった」 国の平定の為に払われた、多大なる犠牲。 討伐隊と共にカレッカに乗り込んだマッシュが見たものは、血塗られた剣を手に呆然と立ち尽くす帝国兵士と、その足元に横たわる夥しい数の遺体だった。 兵は、カレッカを占拠したとされる都市同盟への奇襲攻撃隊だった。命に従い闇夜に紛れて襲った相手は、敵兵ではなく罪の無い住民たちだったのだ。 血に興奮した兵士たちの目が覚めた時には既に遅く、素朴な町は一夜にして死の町と化していた。 作戦を指揮した指揮官は、百人隊長の一人の手にかかり息絶えていた。件の兵はそのまま逃亡したと言う。 一瞬で全てを理解したマッシュは、討伐隊の兵が奇襲隊に向けた刃を押し留め、都市同盟撃退の報告を帝都に送り、二つの部隊には厳しい緘口令を敷いた。 真実を明らかにしても、誰も救われないからだ。 虐殺されたカレッカの人々も、守るべき民を手にかけた奇襲隊も、帝国のおぞましい裏の姿を知ってしまった突撃隊も……。 その後奇襲隊の兵の中には、自殺者や心を病んだ者が少なくないと言う。同胞の血に染まった己が手と、嘘の上に与えられた栄誉は、彼らの心を罪の意識で苛んだのだろう。 レオンはマッシュがどう動くかを見抜いていて、事後処理をさせる為にカレッカへ行かせたのだ。 帝都に戻って来たマッシュは、そのまま軍から身を引き、グレッグミンスターを去った。 「カレッカを滅ぼし、お前を利用した私を責めるか?」 問いかけに、マッシュは小さく首を振った。 「いいえ。それが軍師レオン・シルバーバーグです。そして私はあなたにはなれない。自分の中にカレッカの事件を容認する部分が存在すると気づいた時、もう軍師はできないと思いました。采配一つで大勢の人間の運命を狂わせてしまう軍師の業に、恐れを成しました。これ以上、争いごとに関わりたくなかった。これからは人を殺す方法ではなく、人を生かす道を子供たちに伝えて生きたかった。――あの方に、守るために戦うことを教えられるまでは」 苦笑とも自嘲とも取れる複雑な表情で、マッシュが微笑む。 「あの方と共に戦場を駆けていると、自分がどうしようもなく軍師であったことを思い知らされます。現実から背を向けていた頃には、こんな清清しい気持ちを感じたことはなかった。力があるのに戦わないのは臆病だと言ったオデッサの言葉も、今なら素直に受け止められます。私が逃げていたのは戦いではない。己の弱さと向き合う事だった」 同じ軍師の道を往く血縁者でありながら、マッシュとレオンの在り方は全く違っていた。 遡れば、マッシュの父である兄と、だ。 幼い頃から兄弟の意見が合ったことはなかった。レオンを静とするならば、兄は動。その気質は子供たちにも受け継がれたようだ。 レオンが求めるのは、完全なる策によって導き出される『結果』だ。兵の数は数字であり、勝利に犠牲が必要となれば、どんな手段でも躊躇はなかった。 主に対しても同じだ。調教師が名馬を育て上げるように、軍主の健康や精神状態を管理する。仕えるべき主人という概念はない。 自分の策が気に入らないなら、何時でも解雇していい。レオンは契約を結ぶ相手には必ず最初にそう告げる。主導権を握るのはレオンなのだ。 対してマッシュは『仕える』軍師だった。主の長所を引き出し、短所を諌めて導く。セイカではさぞかし良い教師だった事だろう。 殻に閉じ篭っていたマッシュの心を動かした軍主は、将軍である父を超えるカリスマを感じさせるが、まだほんの子供だ。 彼の少年が寄せ集めの荒くれ猛者をまとめて来れたのは、本人の力もだがマッシュの功績が大きい。 一歩後ろにマッシュが立つ事で、少年が大きく見える。 背中に絶対の信頼を預けられる軍主は、揺るがない。 芯の通った一本柱は、求心力の渦を生み出す。 カレッカの町で、軍主とマッシュが視線を交わした一瞬に、レオンはこの軍に軍師としての居場所がない事を察した。 それでも仲間になる申し出を受け入れたのは、甥がどんな風に変わったか興味が沸いたからだ。 マッシュは良い軍師になった。この甥と手を組むのも、敵対して智を争うのも面白いだろう。 「――お相手ありがとうございました」 気づけば盤上の戦いが終わりを迎えていた。 「パペチュアルチェックか」 同じ手が繰り返される永遠のループを強制的に引き起こし、引き分けに持ち込むテクニックだ。 今のマッシュでも、まだレオン相手に勝利を勝ち取るのは難しい。故に『決して負けない』策を取った。そこに今までには無かった不屈さを感じる。 「いいだろう。私を利用すると言うなら好きにするがいい。お前の軍師としての姿、最後までしかと見届けさせて貰う」 「――必ず勝利の旗を掲げると、お約束いたしましょう」 自信に満ちた眼差しと共に、マッシュの唇が笑みの形に引き結ばれた。 長く夜に覆われていたこの国は、もうすぐ夜明けを迎える。 暁のその向こうにあるものは。 赤月アンソロに寄稿したお話を再録です。 |