洞窟というより岩穴と言った方が正しいこの場所は、二人が向かい合わせに座ってかろうじて雨が吹き込まない程度の広さだった。山越えの途中で雨に降られ、飛び込んだ先の洞窟にいた先客。パッと見渡して二人が落ち着ける広さがないと判るや身を翻そうとしたアスを、相手が止めた。
「もうすぐ雷が来る。詰めれば何とかなるからここにいていいぜ」 彼が言い終わると同時に、夜空に大きな稲妻が走った。街中と違い、山の雷は激しい大音響を伴い耳を焼く。言葉に甘えて慌てて岩の中に飛び込むと、続けて二回目の電撃が空を走った。 「ちぇっ、こんな所で足止め食らう羽目になるとはな…」 雨避け代わりの布に阻まれたくぐもった声に、聞き覚えがある気がして視線を向ける。まだ少年らしいやや高めの声だ。 パサリという衣擦れの音と共に水を吸って重くなった布の下から現れた、オレンジががった明るい栗色の髪。 「…………っ…」 よく知った顔との思いがけない再会に、アスは目を見開いた。 テッドは、濡れた上着を脱ぐと素早く野営の準備を始めた。持っていた枯れ枝を組んで火を熾し、(雨が降る前に、歩きながら枯れ枝を拾っていたらしい。漠然と歩いていたアスとはえらい違いだ。流石狩人)持っていた入れ物に雨水を溜めて火にかける。 「あんたも服脱げよ。濡れたままだと風邪引くぞ」 鼻近くまで隠れるフード付きマントを被っている所為で、テッドはまだアスだと気づいていない。 あの戦いの最後に、紋章の力を使い呼吸の止まったアスの体は小船に乗せられ海に返された。 紋章の加護があったのか、嵐で小船が転覆する事もなく、約一ヵ月後に息を吹き返したアスは、無事オベル船に保護された。 その頃には仲間の多くは群島を離れていて、アス生存の通知を出せない者も多かった。テッドもその一人だ。 一度死んで甦った人間と再会するのは、一概に喜びばかりではない。アス個人ではなく、リーダーとしか認識していなかった仲間のうちには、はっきりと恐怖を浮かべた者もいた。 テッドが彼らと同じだとは決して思わないが、何となく正体を明かす気になれなくて、このまま無関係の旅人を装う事にした。どこまでテッドを騙せるかという軽い悪戯心もあった。 ふるふると首を振って拒否するアスに、テッドが眉を顰める。 「……顔見られたくないとか?」 こくりと頷く。テッドが一気に警戒心を増したのが気配で伝わって来た。 「誰かに追われてでもいるのかよ」 こくり。 「別にあんたがお尋ね者だったとしても、通報したりしないぜ」 ふるふる。 見られて困るのは、目の前の相手にだけだ。 「……まあいいさ。声も聞かせられないって?」 若干皮肉の篭った物言いに、喉を押さえて首を振る。口をぱくぱくさせ、喉の奥を指差す。 「……声が出ないのか?」 こくり。 「風邪引いてるんなら、益々そんな格好してるなよ。悪化するぞ」 ぽいっと顔面に放られたのは、乾いたタオルと薄い生地のマントだった。テッド自身のマントは奥に丸めて置かれているから、これは予備のものらしい。 「上着脱いでそれを頭から被ってろ」 「…………」 ぺこりと頭を下げ、テッドに背を向け姿が見られないようにしてマントを着替える。このままいつまでも気づかれなかった場合、一晩中びしょぬれのマントを着ていなくてはならないかとげんなりしていたので、テッドの厚意はありがたかった。 タオルで水分をざっと拭き取り、マントを頭からすっぽり被って、視線はやや俯いて上目遣いに、口元は布を引き寄せて隠す。 「ほら」 続いて、湯気の上がったお茶が差し出された。 もう一度頭を下げて、カップを受け取る。冷え切った手のひらにじんわりと熱が染みていく。 「見たところ随分軽装だけど、山越えするんならちゃんと準備しておかなくちゃ駄目だ。山を甘く見ると痛い目に合うぞ」 「………」 頷く。街道を進んでいる筈がどんどん山深くなり、日が落ちて、途方にくれていた所にこの嵐。テッドに出会えなかったら、どうなっていたか判らない。 テッドが群島を出たのは一ヶ月以上前のはずだが、どこで寄り道していたのか偶然にも追いつけたお陰で、遭難しないで済んだ。 手の中のお茶をそっと口に含むと、ぴりりとした刺激が喉を焼いた。 「…?」 「ちょっと生姜を入れてある。喉にいいぜ」 動きを止めたアスに、テッドが軽く笑った。驚く。 テッドの笑顔なんて、船に居た頃は殆ど見たことがなかった。 テッドの変化に興味が湧き、ふと思いついて荷物を弄って紙とペンを取り出す。本を下敷きにして湿気った紙にカリカリと書きつけ、テッドに見せた。 『ありがとう』 「どういたしまして」 再びテッドが微笑む。 「……お前、追われてるって言ってたよな。もしかしてハルモニア、か?」 真の紋章を持っている者なら、この言葉だけで充分意は伝わる。 テッドの視線が右手に注がれたのを感じて、思わずと言った風を装って左手で覆う。真の紋章は殆どの物が右手に宿ると、以前テッドに聞いた。左手に宿る真の紋章は珍しいと。 「気をつけろよ。あいつらはしつこいからな。……俺も知り合いに真の紋章持ちがいて、少しだけ関わった事があるから」 テッドが慌てて付け加えた。 「俺は獲物を探して山に入ったんだ。雨が降って来るとは思わなくてさ。失敗したな」 これは嘘だ。アスはテッドが天気を読める事を知っている。かつてテッドの空読みには何度もお世話になった。先ほども雷の接近を言い当てた。 『ずっと一人で旅を?』 書き終えた紙を、テッドに見やすいように掲げる。 エルイール要塞攻略後、テッドは祝賀会に出ることなく船を下りたのだという。そのテッドの背を、追いかけて行った仲間がいる。 彼がテッドに追いつくことを疑いはしなかったが、その後の事は気になっていた。 持ち主の身近な人物の魂を喰らうというテッドの紋章。追えばきっとアルドの魂は紋章の餌食になる。決戦前夜、アスに出来た事といえば僅かな忠告だけだった。 ――行くのかい? 言葉が差すのは、戦いが終わった後の事だ。 ――はい。 ――それで命を落とす事になっても? ――はい。 穏やかな微笑に確固たる信念を乗せて、アルドが答える。 エルイール要塞で、テッドに続いて紋章砲制御室へ向かうブラウンダスクの髪を見送ったのが最後だった。 問いかけにテッドはいや、と軽く首を振り。 「連れがいたんだけど、狩りの最中はぐれちまった。多分向こうもどこかでこの雨をやり過ごしている筈だ。山には慣れてる奴だから心配ない」 口調からテッドの連れは女性や子供ではない事が窺える。十中八九、アルドの事と思って間違いはないだろう。 ほっとした。 テッドがアルドの同行を受け入れた事に。 アルドがまだ、テッドの傍らにいる事に。 『真の紋章を持っていても、人と一緒にいてもいいものだろうか』 少し悩んで、新たな問いを紙に書いて見せる。テッドが今の状況をどういう風に受け止めているか、興味があった。 「宿している紋章が周囲に害を与えるものじゃない限り、問題はないだろ。年を取らないから長居はできないだろうがな」 『害を与えるものだったら?』 テッドの眉が僅かに寄る。 「お前のはそうなのか?」 『特殊な条件が揃わなければ大丈夫。だから君に害が及ぶ事は無い』 頷いて、文字で付け加える。実際は紋章はもうアスの命を削らない。罰の紋章は呪いから解き放たれたのだ。 世界に27あると言われる真の紋章は、まだ歴史上に姿を現していないものがいくつもある。嘘を吐き通す事は可能だった。 「ふーん……結構あるんだな。呪い系の真の紋章って」 案の定、テッドも信じてくれたようだ。今テッドの脳裏には、ソウルイーターと罰の紋章が浮かんでいる事だろう。 もう一度先程の問いをとんとんと指差して、返事を促す。 「あ、ああ。…そうだな…。本当は他人と交わるべきじゃないんだろうが…人は一人じゃ生きられない生き物だから」 予想外の答えに、アスはマントの下で目を瞠った。 自分の孤独よりも、他人の命を守る事を優先してきたテッドが、今自分の望む道を選んでいる。 テッドが自分の小さな我侭を許せるようになったのは――きっとアルドの存在のお陰。 愛情に飢えた魂に溢れるほどの愛を注ぎ、望む事が許されなかった傷ついた幼子のようなテッドに優しい抱擁を与えた。 無条件の愛という盾を得た子供は、たどたどしい足取りで暗黒の世界へと一歩を踏み出した。運命に立ち向かう勇気が生まれた。 『知り合いの人はどうしていた?』 「知り合い?……ああ、知り合いな。そいつの紋章は、お前と同じで本当は他人と一緒に居ちゃいけないんだ。だけどそいつは一人でいる事に耐えられなかった。全て判った上で受け入れてくれた人間を、振り払うことができなかった…」 『その人の事を、どう思う?』 「弱くて馬鹿な奴だ」 『その人は不幸だったのか?』 「いや……」 テッドの手の中の枝が、ポキリと音を立てて折れる。 「幸せだったと思うよ」 放り込まれた枝のお陰で、ぼうっと炎が一瞬強まる。照らし出された顔は穏やかで。 『良かったね』 文字にしながら、そこに続く言葉を心の中で紡ぐ。 アルドに出会えて、良かったね。 幸せだと感じられるようになって、良かったね。 自分が知るテッドの目は、いつも寂しい寂しいって泣いていたから、こんな風に笑えるようになって本当に良かった。 「ああ……」 テッドが岩穴の外、未だ荒れ狂う夜の空に視線を向ける。同じ山の中で一人で朝を待つアルドの事を考えているのかもしれない。 己の命よりもテッドを救う事を選んだアルド。 彼の想いはテッドに通じたのだ。 昨夜の嵐が嘘のように、澄み切った空だった。 朝日が顔を覗かせるのと同時に目を覚ましたアスが、借りたタオルとマントを綺麗に畳み、自分のマントをフードまできっちり被って身支度を整え終わった所で、テッドも目を覚ました。彼の早起きも相変わらずのようだ。 昨夜の礼と、これから出発する旨を筆談で伝えると、「簡単な物しかないけど、朝メシ位食っていけよ」と引き止められたが、首を振った。薄暗い夜ならともかく、明るい日差しの下では正体に気づかれる確率が高くなる。 テッドも二度と会うことのない旅人だからこそ、話してくれた部分もあるだろう。 今更バラして責められるのは遠慮したかった。折角ここまで騙し通せたのだしという思いもある。 ここで連れが来るのを待つというテッドと別れて、アスは山を下り始めた。今日は風もなく、目印の焚き火の煙は真っ直ぐ天へと伸びていた。 テッドから数メートル離れた所で、がさがさと木をかき分ける音が響いて思わず振り返ると。 「テッドくん、ここにいたんだね!煙が見えたから多分そうだろうと思って……って、あれ?あなたは…」 茂みから姿を現したアルドが、アスを捉えて目を瞠り、それから嬉しそうに破顔した。 「……!」 慌てて身を翻して、できうる限りの早足で山道を下る。一晩一緒にいたテッドは気づかなかったのに、どうやらアルドはたった一目で正体を見抜いたらしい。 「お前の知り合いか?」 みるみる小さくなっていく背中に大きく手を振るアルドに、テッドが訊ねる。 「え、だってあの人はアスさんじゃないか。良かった…噂は本当だったんだ。アスさんを水葬にした後、僕たちはすぐ出発しちゃったから、生き返ったアスさんには会えなかったんだよね。こんな所で会うなんて偶然だね。昨日二人は一緒だったの?急いでたみたいだけど、何か急な用事でもあるのかな…。僕もアスさんとお話したかったな」 「……なんだって?」 言われて改めて木々に見え隠れする人影を追えば、確かに後姿がアスに似ている気がした。 と、彼のフードがふわりと捲れて、見慣れたあけぼの色の髪が風に靡いた。 「……!あのやろ……っ!騙したな!!」 背後から聞こえて来た怒鳴り声に、小さく笑いながら内心謝る。 アスにもテッドにも、時間は腐るほどある。本格的な謝罪は、またどこかで偶然再会できた時にさせてもらおう。 その時は、テッドの満面の笑顔が見れる事を期待して。 またいつか。 アスとテッドが次に再会できるのは、150年後のグレッグミンスターです。この時も擦れ違っただけだから、結局謝らないまま永遠の別れとなりました。 |