エチエンヌが奏でる消灯時間を告げる音楽がサロンに響き渡ると、人々はしぶしぶ重い腰を上げた。今日の寛ぎの時間は終わったのだ。
船室へと向かう酒臭い集団の中に混じる気になれなくて、酔い覚ましも兼ねて甲板に出る。酒で火照った体に夜風が心地良かった。 甲板には同じように涼みに来ている人間が何人かいた。人がいない所を求めてぶらぶら歩いていると、ブリッジの上方から名前を呼ばれて振り仰ぐ。 そこにあったのは意外な顔だった。 「テッド…でいいんだよね。僕のこと覚えているかな。一度パーティで一緒になった事があるんだけど」 手すりから身を乗り出すようにしてテッドに話しかけていたのは、先ほど散々話題にしていたスノウだった。 「何か用か?」 「ちょっと話をしたいんだけど、いいかな」 「………」 返事はせず、スノウのいる高台への階段を登る事で肯定を返す。 「僕が下に降りていこうと思ったのに……わざわざありがとう」 「話って何だ?」 相貌を崩したスノウに短く問う。関心を抱いていた相手だったから誘いには乗ったが、必要以上に友好を深めるつもりはない。 「テッドはアスと親しいんだよね?」 予想通りの質問に、内心溜息を吐いた。どうせ彼らがテッドに訊きたい、言いたい事など、アスの事以外ないのだ。 「タルたちに聞いたよ。人見知りするアスが、テッドとは最初から打ち解けてたみたいだって……。僕がこの船に来る前に、アスは僕のことを何か言っていたかな」 「別に」 「そうか…」 この質問はスノウにとってかなりの緊張を強いられるものだったのだろう。求める答えを得られなくて落胆した半面、安堵もしているのが表情から伝わってきた。 「まあ、アスはそういう事を他人に言うタイプじゃないしね。じゃテッドから見て、僕とアスはどういう風に見える?」 「友人なんだろ。……仲のいい」 石塊島でのアスの顔を思い出して、言葉を付け足す。 「友人か……」 スノウが遠い目をしたので、テッドは訝しげに眉を寄せる。 「違うのか?」 「僕はそのつもりだったけど、ラズリルにいた頃の僕たちは、傍目にはとても友人関係には見えなかったと思うよ。敬語を使わなくても、同じ騎士団員になっても、あくまでもアスは僕に仕える小間使いで、僕は主人だった。二人ともそれが当たり前になっていて、疑問に思うこともなかったんだ。ラズリルの領主の嫡男である僕に、意見できる人間もいなかったしね。 タルたちと話すようになったのも、実はこの船に乗ってからなんだ。それまでは必要なこと以外、殆ど口を聞いたことがなかった。ずっと一緒に訓練を受けて来た仲間なのにね…。タルたちに限らず、僕には友人と呼べる人間はアスしかいなかった。僕はいずれ騎士団長となり、ラズリルを統べる領主となる身だ。集まって騒ぐだけの、くだらない友人なんて必要ないと思っていた。 自分がいかに世間知らずで傲慢か、知るよしもなかった。アスが団長を殺したのならその罪を償うべきだと、ラズリルの民の命を守る為には、クールークの傘下に入るしかないと……それが唯一の正しい道だと、信じて疑わなかったんだ」 「………」 「団長が死んだのは、罰の紋章の所為だったって聞いた。団長の死の瞬間に居合わせた僕は、てっきりアスが団長を殺したと思った。アスがそんなことをする人間じゃないことは、ずっと一緒に育った僕が誰よりも知っていたのに。タルとポーラは、アスの無実をこれっぽっちも疑っていなかったのに…。僕はあの時とっさに、倒れている団長やアスを心配するよりも自分が優位になる事を考えた。団長に目をかけられ、僕の立場を脅かしていたアスを蹴落とそうとした。あの時はそんなつもりはなかったけど、自分の心ときちんと向き合ってみればそういう事だったんだ…。 僕はアスに負けたくなかった。アスは僕が父に懇願しなければ海に返されていた、僕に付き従う事で生きる事を許された子供だった。アスは僕の為に存在していたんだ。その相手が僕の未来の前に立ち塞がる。飼い犬に手を噛まれた気持ちだった。本当の弟みたいに可愛がっていた分、憎しみは大きかった。アスが流刑に処せられると決まった時、僕は彼が死んでもいいと思った……彼の死を、願った…」 両手で顔を覆い、血の出るような告白を続けるスノウを、テッドは感情を見せることなく見つめている。 「だけどアスはオベル王国という強大な力を携えて、再び僕の前に現れた。ラズリルの民は、国を守る為にクールークに従った僕ではなく、アスを選んだ。 二度目の再会はもっと惨めだったよ。国に戻れず海賊に身を落とした僕なんて、軽蔑して見捨ててくれれば良かったのに、アスは昔と変わらず手を差し伸べて来た。彼の後ろにはたくさんの仲間達がいた。僕が持っていた物を、全てアスに奪われた気がした。哀れまれる位なら死んだ方がましだと思った。 三回目は更にひどかった。僕がこの船に拾われた時の事を知ってるかい?僕は丸太一本にしがみ付いて、海を漂流していたんだよ。ニコが発見してくれなかったら、翌日には海の底だったろうね」 ふふ、と自嘲的な笑みを洩らし、スノウは視線をテッドへと向けた。 「アスという万能の盾を失って、僕は世間がどれ程厳しく、そして自分がいかに弱いかを知ったよ。アスがずっと傷つかないよう守ってくれていたから、僕は何でもできる気になっていた。実際は僕の手はこんなにも無力だったのに。丸太で海に揺られ、死を間近に実感した時、僕はようやく自分の弱さを認めた。アスの優しさを、素直に受け止められた。気づくのが遅すぎたね…」 「遅くても気づいたんだから問題ないだろ」 ずっと無言だったテッドから、慰めとも言える言葉が返って来て、スノウが驚いたように目を見開く。 「一生気づかない奴も多い。相手がアスみたいな能天気である可能性も少ない。一度関係に亀裂が入ったら元に戻らない事の方が多いんだ。あんたらは運が良かったんだ」 「そうだね……僕もそう思うよ。ありがとう」 くしゃりとスノウの顔が歪み。 「もう一度さっきの質問なんだけど…テッドの目から見て、アスは僕の事をどう思っていると思う?」 「どうって?」 「…アスは義務感で僕を助けてくれたんじゃないか、とか…」 「馬鹿だな、あんた。いや鈍感なのか」 「…どういう意味だい……」 「義務で動くような奴かよ、あいつが」 流されているようで、実はしっかりと自分の足で立っている、それがアスだ。 突きつけられた運命の道を、いつだって自分の意思で歩いて来た。決して他人に言われたからではない。 そんなこと一番スノウが知っている筈だろうにと考えて、彼がアスの背中を知らない事に思い当たる。スノウ以外の宿星ならみんな判っている。あの背中に付いて来た者たちならば。 きっと遠からず、スノウもそのことに気づけるだろう。彼もまた、アスの元に集った星の一つなのだから。 「あいつはあんたの知るあいつと、ちっとも変わってねえよ」 「そうなのかな…?」 スノウは今一釈然としない様子だが、これ以上詳しく説明してやるつもりはない。そこまで親切ではない。 「今まではアスが僕を守っていてくれた。だけどこれからは僕がアスの盾になりたいんだ。こんな僕を許して受け入れてくれたアスの役に立ちたい。僕じゃ力不足かもしれないけど」 「あんたは弱くないさ」 自分の弱さを認めることがどれだけ難しいか、テッドは痛いほど良く判っている。 その上で未来を見つめることができたスノウは、とても強い人間だ。霧の船からは出たものの、未だその場で足踏み状態のテッドにとって、スノウの決意はアスと同じ位眩しい。 「ありがとう。僕はずっと誰かに話を聞いて貰いたかった。今日もここで、星を見ながら一人で悶々と考えていたんだ。アスやタルたちにはこんなこと言えないし、かといって全く知らない人間に告白するのは怖くて…。だけどさっき甲板にテッドの姿を見つけた時、テッドになら話せるって思ったんだ」 「何で俺なんだよ」 スノウと顔を合わせた事があるのは一回だけだ。こんな深い話を打ち明けられる程近づいた覚えはない。 「テッドがアスの傍にいたから…かな。それとアスとテッドってどこか似ている気がするんだ」 「はぁ?どこが!」 思いっきり否定したテッドに、スノウが戸惑いながら言葉を探す。 「どこがって言われると難しいんだけど、雰囲気とかが何となく」 「雰囲気ねぇ…」 第三者の主観的な感想は、参考にはなれど納得はできない。 テッドが思いつくアスとの類似点は、真の紋章を持っている事位だ。 考え方も行動も感じ方も、テッドとは全く違う。だからこそ彼に惹かれ、その背を追う気になった。 自分と同じ運命を持つ者が、どんな未来にたどり着くのか見届けたかったから。 「ところで、話ついでにもう一つ頼みを聞いてくれるかい?僕の誓いを聞いて欲しいんだ」 「誓い?」 「僕がこれからの人生を、胸を張って生きるための誓いだ」 スノウは腰に差していた剣を鞘から抜くと、両手で恭しく水平に捧げ持ち、目を閉じた。研ぎ澄まされた刃が月光に反射して煌く。 「――僕はもう決して目の前の困難から逃げない。どんな運命にも正面から立ち向かうと、我が名を冠したこの剣にかけて誓う」 「………」 「ありがとうテッド」 剣を収めたスノウが微笑む。 そのパールグレイの輝きを直視することは、今のテッドには出来なかった。 ――僕はもう決して目の前の困難から逃げない。 ――お前も逃げるんじゃなく、守る為に戦ってみないか? スノウと別れ、船内を縦に繋ぐ階段を下りるテッドの脳裏を、スノウとリノの言葉が繰り返し反響している。 逃げるのが悪いことだとは思わない。ソウルイーターは、テッドの意思だけでどうにかなる代物ではない。 だけど――逃げるばかりで本当にいいのだろうか。 第二甲板まであと数段という所で、テッドはその人物の存在に気づいた。 いつかと同じ光景だ。普段デスモンドが立っている、宿星が記入された船内名簿の前に立ち尽くすアスの姿。 「また見てたのか」 今日は気配を隠さずに近づく。名簿を見つめていた時の表情のまま、アスがテッドを振り返る。 「ここを通る時はつい確認してしまうんだ。嬉しくて」 アスの視線が先ほどまで向けられていた先には、天暗星の文字がある。そこに書かれている名はスノウ。 ずっと空欄だった最後の場所だ。 そこが埋まったあの日まで、アスが名簿の前で足を止める事はなかった。だが通り過ぎ様、視線がいつも名簿を滑っていた事にテッドは気づいていた。 スノウの名の書かれた部分を嬉しそうに撫でるこの姿を、まだ甲板にいるであろうスノウに見せてやりたい。 「ったく、そんなにスノウが好きかよ」 「家族を慕うのは当然だろ」 何故そんな判りきった事を?と言わんばかりの声に、テッドは苦笑いを深くせざるを得なかった。 弟同様に可愛がりつつも、主人という優越感を捨て切れなかったスノウと違い、アスは純粋にスノウの好意を受け止めていたらしい。 やっぱり能天気な奴だと、だがその素直さが彼の魅力なのだとテッドは思う。 「お前が変わったのはスノウのお陰か?」 「死にたくないと思えるようになったからな」 若干の推考の後、答えは微笑みで返って来た。 紋章が宿ったのは自分の運命と、迫り来る死を悲観することもなく、甘んじて受け入れていたアスだった。 だがスノウの存在が、アスに運命に逆らおうという気持ちを呼び起こした。かつての関係を修復するのではなく、新たな関係を築ける可能性を得たが故に。 「紋章に命を削りつくされるにしても、せめて抗いたい。生きる努力をしたいんだ」 「生きる努力、か……」 紋章が人の魂を喰らうのを脅えて過ごすのではなく、紋章を制御する努力を。 強大な力に屈さず、立ち向かう勇気を。 そうすれば、長く果てしないテッドの人生の生き方も変わってくるのかもしれない。 ぎゅっと握り締めた右手拳を見下ろす。 「やあ、アスにテッド。まだ居たのかい」 「スノウ」 階段を下りて来たスノウを、アスが笑顔で迎える。 目の前の天魁星のように、笑えるようになるかもしれない。 4テッド愛☆祭一周年記念本「ほしまつり〜海に輝く108の星〜」に寄稿した話を修正して再録。 |