緩やかな川の流れに落とされた釣り糸に、太陽の光が反射して煌く。
水面に浮かぶ浮きは先ほどからぴくりとも動かず、時折風が起こす小さな波に揺られているばかりだ。
「あー、退屈だなぁ」
「もう少しだから待ってよ」 
川に突き出た桟の先端で釣竿を握っている少年が、笑って振り返る。
「もう少しってどれ位だよ。一応釣りしてるお前はともかく、傍で待ってる俺は暇でしょうがないっての。本当に今日で合ってるんだろうな?」
「日にちは合ってるよ。時間もそろそろの筈だ。ただ多少の誤差は入るだろうから、絶対にその通りになるとは限らないけどね」
「ま、仕方ないか……」
肩を竦めて、再び緑の絨毯の上に寝転がる。木陰で日差しを避けている親友は、もうこの状態にかなり飽きて来ているらしい。
「せめて魚の一匹も釣り上げてくれよ。そしたら捌いて焼いてやるからさ。もう二時間も引き一つ来ないって、ここら辺魚居ないんじゃないのか?」
「かもね。前も全然釣れなかったから。でもどうせ他にすることないし、のんびり待とうよ」
「へいへい。俺暫く寝るわ。魚釣れるか、そいつらが来たら起こしてくれよな」
「それじゃ見張りの意味無いじゃないか」
「見張りなんて必要ないだろ。どうせ」
「まあね」
会話が途切れるとすぐに軽い寝息を立て始めたテッドから、再び浮きに視線を戻す。
穏やかな日差し。微かな川のせせらぎ。ゆっくりと時間が流れて行く。

ガサリ

(来たな)
静寂を破った足音に、心の中で呟く。
記憶通りだ。今回は邪魔者がいないから、すぐに声をかけて来るだろう。
「……あれ?おかしいなぁ…」 
懐かしい声に自然顔が綻ぶ。まだ声が若い。
平静さを取り戻す為、釣竿を握り直す。変に思われないようにしなくては。
村に繋がる細い小道の入り口に近くで寝ているテッドは、まだ眠りの底らしい。待ちわびた相手が来たというのに、タイミングが悪いなと苦笑する。
寝ている彼を起こさないように、静かに近づいてくる気配が一つ、二つ………二つ?
馬鹿な、大した魔物はいないとはいえ、あそこからたった二人で峠越えして来たというのか?
『今回』の彼はなんて無謀なんだ。
「あの……」
挨拶が終わったらたっぷり小言を言ってやろうと振り返った瞬間、シオンの目が大きく見開いた。
目の前にいる二人連れ。一人は予想通り同盟軍リーダー、コウリだ。
だがその横に立つ、コウリと同じ年頃の長い金髪の少年は。
「……っ……」
シオンもよく知る人物。
(なんでジョウイがここにっ)
コウリの幼馴染みにして、ハイランド皇王となっている筈のジョウイ・アトレイド。
その彼が敵対する同盟軍リーダーと二人きりで、トランの国境に近いこの場所、バナーにどうして居るのか。
「あの…どうかしましたか?」
「いや……」
慌てて感情を仮面の下に覆い隠す。警戒させてはいけない。
(僕たちの影響が出たのか?)
これまでも小さな出来事であれば、記憶と食い違う場面は数多くあった。
その時その場にいる筈のない人間がいたり、違う行動を取っていたり、食べた物や着ている服と言ったどうでもいい事は、それこそ記憶と同じ事の方が少ない。
投じた一石は大きな波紋となって、変化を相殺するのに必要なだけの未来まで緩やかに手を伸ばし、時間を新たに塗り変える。
時に刻まれた、決して変えることの出来ない確定事項を避けて。
コウリの隣に居るのが別の人間だったら、これ程驚きはしないだろう。例えば自分の見知らぬ人間が、宿星になっていたとしても。
だが相手はジョウイだ。始まりの紋章に魅入られた片割れだ。
彼が皇王になるのは確定事項ではなかったのか?
時の波紋に掻き消される様な、小さな役割だったのか?
「えーとですね…それで一緒に来て欲しいんですが…」
「んー…、シオン?奴らが来たのか?」
「テッド」 
話し声で目が覚めたらしい。目を擦りながらよいしょっと体を起こしたテッドに、何とはなしに皆の視線が集まり。
「え……テッド、さんっ…!?」
コウリの喉から、悲鳴にも似た声が上がる。
シオンとテッドに緊張が走った。視線でテッドにコウリと会った事があるのかと問うと、ふるふると首を振る。
コウリの顔には、先ほどシオンがジョウイを見た時と同じような驚愕が浮かんでいた。
そして後に続いた言葉。
「何で…どうして…テッドさんは亡くなった筈じゃ…」
「………!」
この歴史上では、テッドは死んでいない。テッドはコウリに会った事がない。
コウリはいつどこでテッドの存在を、死を知った?
(まさか)
「コウリ…君も『本』を手にしたのかい?」
そしてジョウイがここにいる訳は。
「え……じゃあシオンさんも……っ…」
「――あらら」 
「…?」
構えていたテッドの肩が、すとんと落ちる。
初対面の二人が互いの名を呼んだ事に、疑問を浮かべたのはジョウイだけだった。




「お久しぶりです…って言うのも変ですね。この時間上では、僕たちが会うのは今が初めてなんですから」
それぞれの連れから離れ、リーダー二人は川に張り出た桟橋の淵に、並んで腰掛けている。
コウリの様子から大体の事情を悟ったテッドは、一人事情が飲み込めず、親友を質問攻めにしようとするジョウイを連れ、村の宿屋に向かった。去り際に、余計な事は言わないからと安心させるように微笑みかけてくれたお陰で、コウリの心は大分軽くなっている。
テッドの人柄は、『前回』シオンが本拠地に滞在していた間に何度も聞いていた。彼に任せておけば問題ないだろう。
「それで判ったよ。ジョウイと君が一緒に居た訳が。君も過去を変えたんだね。鈴の音はまだ聞こえるのかい?」
「いえ、王国軍のキャンプの潜入から無事二人で戻って以来、聞こえてないです。多分あれで運命が固定されたんでしょう」
『前回』と違い、兵士に見つかることなくキャンプの情報を持ち帰った二人は、その後もずっと行動を共にしている。
ジョウイはアナベルを殺さなかったし、ミューズで王国兵を招き入れる事もなかった。ビクトールたちと一緒にノースウィンドウに行き、今は同盟軍の一員として一緒に戦っている。
軍主には前回同様コウリが、ジョウイはその補佐の任に就いている。
驚くべきことに、ジョウイの名は約束の石版にも刻まれていると言う。
でも代わりに誰が抜けたのか判らないんですよね、とコウリは首を傾げた。『前回』の記憶はしっかりあるのに、それだけがどうしても思い出せないのだと。
ジョウイの宿星は地魁星なんですけど、シオンさん覚えてます?と訊かれたが、自分の108星ですら怪しいのに、人の宿星まで覚えている訳がない。
恐らくジョウイは、本来の地魁星と運命をスライドしたのだろう。記憶があやふやなのはその所為か。
「ただ心配なのは、まだこの戦争が終わってないって事なんです。今の所僕の知る歴史と大差ないですが、ジョウイが同盟軍に参加した新しい歴史上では、どうなるのか判りません。この先戦っていく間に、ジョウイが死ぬ可能性もあるんじゃないかと……」
確かにそれも否定はできない。ジョウイがハイランドに降らなかった時点で『ジョウイを取り戻した』とし、運命が固定されたのなら、その後の未来までは保障はない訳だ。
だが本から聞こえて来た声は『望む未来を与える』と言っていた。未来の範囲がどこまでを指すのかは判らないが、願いの仕方次第によっては大丈夫なのではないかとシオンは告げた。
「僕はテッドが死なない未来を望んだ。君は何て答えたんだい?」
「二人を返して欲しいと願いました」
ロックアックス城で弟を庇って死んだナナミと、天山の峠で親友を待ち、一人寂しく死んで行ったジョウイを。
コウリは、ジョウイと再びここで会おうと約束した地に向かわなかった。
そこにもしジョウイが居たら、全て終わってしまうような気がして。
ジョウイはきっと上手く落ち延びている、どこかで生きてくれていると信じ、必死に自分に言い聞かせた。
だがルルノイエ陥落から二ヵ月後、ジョウイの遺体は発見された。彼らが約束したあの場所で。

『ジョウイ……っ……』

あの時の光景は忘れられない。
岩に背を凭れさせ、夕日を眺めるように向けられていた首。
死体に集るハゲタカや獣に食い散らかされ、正視できないほど無残な姿を晒していたジョウイの体は、右手だけが綺麗なまま残されていた。
震える手でコウリが遺体に触れると、黒き刃は吸い寄せられるように盾と一つになり、始まりの紋章へと姿を変えた。
『………う……ああああああっ………』
絶望を含んだ絶叫が、谷に響いた。

「ジョウイは僕が来る事を信じて、ずっとあそこで待ってくれていた。僕は彼を裏切り、最期の瞬間すら看取ってやらず、おめおめと紋章を受け継ぎ、デュナン国の初代大統領の地位に就きました。ジョウイを喪った後の僕は、死んでいるも同然でした」
その頃の事はシオンも風の噂で耳にしている。
大統領とは名ばかりで、実際は放っておけば一日中椅子に座ってぼんやりと外を眺める厄介者。
政治は全てシュウが執り行っていたという。
「ここまではシオンさんの記憶と違いはありませんか?」
微かに眉を寄せ、シオンが頷く。
シュウからの再三の要請もあり、会いに行こうかと何度か思ったが、結局戦後のデュナンに足を向けることはなかった。
シオンは、コウリと向かい会うことを恐れたのだ。
ヘイゼルの瞳に浮かぶ虚無を目にしたら、自分も取り込まれてしまう気がして。
「そんな時、部屋であの本を見つけたんです」
誰が持ち込んだのか、見たこともない文字の、タイトルと一ページ目以外何も書かれていない本。
引き寄せられるように表紙を捲ると、どこからか不思議な声が聞こえてきた。それはゲンカクの声に似ていた。
シオンが聞いた声は、亡き父の声に似ていた。どうやら本から聞こえる声は、開く者の身近な人物の声を借りるらしい。

 
何を望む?望むものを与えよう。我を開いたその褒美に。

「僕は躊躇いなくナナミとジョウイを返してくれと願いました」

 
承知した

気がついた時には、コウリはユニコーン隊のキャンプ地の温かいベッドの中にいた。忘れようったって忘れられない、全ての悪夢が始まった日だ。
声が告げた通り、運命の分岐点ではコウリだけに聞こえる鈴の音が鳴り響き、彼はそこから少しずつ求める運命を手繰り寄せた。
僕は運が良かったんです、とコウリが笑う。
まだ戦争も中盤だというのに、ジョウイを取り戻せた。右手の皮手袋を外し、見てくださいと差し出された手に刻まれた紋章は、シオンが知るものではなく。
「これは…始まりの紋章?……では君は…」
少年らしい外見には不釣合いな、穏やかな笑み。
解放軍のリーダーがコウリに正式に決まった時、コウリはジョウイを説得して紋章を継承した。
盾と刃はそのまま使えば、宿主の命を削っていく。
この戦争は、二つに別れた始まりの紋章が、互いを求めて起こしたものだ。紋章が望む本来の姿に戻してやれば、二人が争う運命は避けられる。ジョウイが死ぬ確率は格段に下がる。
だがこれでは、コウリは結局いつか取り残されてしまう。
大切な人を見送った後も、少年の姿のままたった一人で。
「そんな顔しないで下さい。大丈夫です」
今はコウリが宿しているが、この戦争が終わったらジョウイが暫くの間引き受けてくれるのだという。
紋章を交互に宿す。それが紋章を一つにするのを承諾した際、ジョウイが出した条件だった。
この条件が呑めないなら、絶対に紋章を渡さないと、ジョウイは強く言い切った。
何があっても決してコウリ一人を置いて行きはしないと、誓ってくれたのだ。
「ナナミと同じ時間は歩けないけど、僕は一人じゃない。ジョウイと一緒ならきっと耐えられる。……そうでしょう?」
「ああ……」
シオンが切なげに微笑む。
彼らは自分たちと同じだ。おそらくコウリ達は一度真の紋章を宿した者が、紋章から切り離されては長くは生きられない事を知らない。
統一戦争に参加した頃のシオンですら、まだ知らなかったのだ。彼らが知る由もない。
だが図らずとも、彼らはシオン達と同じ道を選んでいる。真の紋章を持ち、悠久を一人で彷徨えば、修羅の道。だが永遠を誓った人間が共にあれば、光の道となる。
「ちょっと気になったんだけど、声はナナミとジョウイ、二人を取り戻すチャンスを与えてくれたのかい?僕は生き返らせるのは一人だけと言われた」
「ええ、僕も言われました。その後が多分シオンさんと違うんでしょうが、声はジョウイを死なせない事が、ナナミをも生かす事になると言ったんです」
二人は運命の天秤に繋がった存在なのだと、声は告げた。
運命はいくつもの出来事の積み重なりで出来ている。
ジョウイの死の運命はナナミの死の引き金を引くが、ナナミの死は必ずしもジョウイの死の引き金になるとは限らない。
運命の分岐をナナミを救う為に選べば、ナナミは助かるがジョウイは死ぬ。
ジョウイを救う為に選べば、二人とも助かる。
コウリはジョウイを救う為の分岐を願った。
「そうか……」
少しだけ羨ましくなる。
だがシオンにはグレミオがいた。本がなくとも、既に戻ってきた命が一つあった。
そのシオンが、一度に二人を取り戻したコウリを羨むのはお門違いだろう。
「僕と君の『前回』の記憶が共通している所を見ると、どうやら本は一冊じゃないみたいだね」
彼らが本と出会ったのは、同一線上の歴史だ。
シオンが本を手にしたのと大差なく、コウリの所にも本が現れたと考えていい。
もし本が一冊なら、コウリが本を開いた時はシオンが変えた新しい歴史上という事になる。テッドがシークの谷で死んだという歴史を、コウリが知るはずはない。
シオンとコウリが体験した二度目の時間は、それぞれ別の時間軸上で行われ、運命が固定してから、本来存在していた歴史と入れ替えられたのだ。水の流れ続ける水路の管を、途中で違う管と取り替えたようなものだ。
「不思議な本ですよね……声を聞いた時、昔じいちゃんに聞いた『フォルトゥナの書』という御伽噺を思い出しました」
運命を司り、この世の全てに関与できるフォルトゥナの書は、真の願いを持つ者の前に現れ、願いを叶えた後は何処ともなく消えるという。
寝物語に、養い親であるゲンカクが聞かせてくれた話だった。
「へぇ、知らなかったな」
「ハイランドに伝わるかなり古い伝承らしいですよ。古文書の域に達するような。じいちゃんは人に聞いたって言ってましたけど」
だが実際にその本が存在し、しかも自分が手にして、過去を変えるとは想像もしなかった。
「まあ何でもいいさ。僕も君もこうして、失ったものを取り戻すことが出来たんだから」
「ええ」
水面の輝きに、コウリは眩しそうに目を細めた。 


過去を振り返る必要はないのだ。
望むものはもう未来にしかないのだから。





***


(さあて、どうすっかな)
宿屋の食堂の片隅で、向かいに座る美形の少年から、物問いたげな視線を向けられ続けているテッドである。
「自己紹介がまだだったな。俺はテッド。あんたは?」
「……ジョウイ・アトレイドと言います」
「苗字持ちって事は、貴族か」
ぴくりとジョウイのこめかみが動く。
(あ、まずったか)
「いえ、僕はもうアトレイド家を勘当された身ですから。ただのジョウイと」
「了解」
家の事は触れられたくない話題だったらしい。深く追求せずに流す。
シオンたちの話はまだ暫く続くだろう。コウリの事はシオンから色々聞いていたが、その親友であるジョウイは、コウリの幼馴染みでハイランド最後の皇王だという事しか知らない。
切れ長の目、長く美しい金髪、すらりと伸びた細身の体。いかにも女性ウケしそうな外見である。
(それにしても、シオンだけじゃなく、こんな身近にも本を手にした奴がいたとはね)
ジョウイを見た時のシオンの反応から考えても、コウリが本を呼び寄せるほど願ったのは、目の前のジョウイだろう。
自分もそうだが、それ程強く求められている彼を幸せだと思った。
「……あの」
「何だ?」
少しの逡巡の後、ジョウイが口を開いた。
「あなたたちは何者なんですか」
「コウリから聞いてないのか?」
「凄い助っ人がこの村にいるとしか聞かされてなかったんです」
ジョウイの表情も態度もまだ固い。テッドに対する警戒心が解けていないのだ。
「二人は顔見知りのようでしたが、僕は彼を知りません。僕とコウリはずっと一緒に育ったんです。彼の友人関係なら全て知っている筈なんです」
「…………」
(そりゃ「一回目の統一戦争で知り合いました」って言う訳には行かないよなぁ……)
テッドの方も、初対面の筈のコウリがシオンの事を覚えていた事で、少々混乱している。
中々上手い言い訳が出て来ず、ここはシラを通そうと決めた。
「あいつらがいつ知り合ったのかは俺もよく知らないんだ。俺と一緒にいた奴の名はシオン・マクドール。先の解放戦争のリーダーだよ。名前聞いたことないか?」
「マクドール……っ…あの人が…」
シオンの名前は、ちゃんとハイランド領にも響き渡っているらしい。普段は重いだけの英雄の名も、こういう時は名前が名刺代わりになって便利である。
「で、俺はそのシオンの親友」
親友という言葉にか、テッドの人懐っこい笑顔にか、ジョウイの頬が少し緩む。
「お前はコウリの親友なんだろ?」
「はい」
「じゃこれからよろしくな。俺の武器は弓、紋章は攻撃系から回復系までバッチリ3個宿せる。頼りにしてくれていいからな」
言われた内容と、差し出された右手にジョウイが目を見張った。
「それは…僕たちに力を貸してくれるという事ですか?」
「勿論。俺たちはそのつもりでここに来たんだ。戦争が終わるまで厄介になるぜ」
「……あ、ありがとうございます……」
テッドたちに対する疑いは完全に晴れた訳ではなかったけれど。
僅かな時間で、ジョウイはこの大らかで明るい少年に好意を持っていた。




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