「……かかって来い」
掲げられた刃が、太陽を反射してきらりと光る。腰に差した双剣を抜き、静かに対峙した。 下りる沈黙。広がる緊迫した空気。 船上から必死の面持ちで見守る仲間達の視線。だがそれは、エイルにとって励ましにもプレッシャーにもならない。 今この瞬間エイルの心を占めるのは、目の前にいる男だけだ。 海神の申し子、トロイ。 「――はぁっ!」 気合と共に、エイルは沈みかけた船板を蹴った。 キーン 刃同士がぶつかり、鋭い音を立てる。 (流石エルイール要塞を落とした軍主) 冷静な表情で剣を受け止めながら、トロイは背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。 まだ幼さの残る外見とは裏腹に、エイルの太刀筋は驚くほど鋭く、隙がない。 たった一合わせで、トロイはエイルの実力を見抜いていた。一瞬でも気を抜けば、二つの刃は容赦なくトロイの体を切り裂くだろう。 美しいインディゴブルーの瞳。澄んだ青の奥に潜む激しい炎は、触れたものを冷たく焼き尽くす。 (この炎に焼かれるか) たとえエイルを倒しても、その背後には数多の猛者が乗るオベル船がある。比べてこちらは今にも沈みそうな船にただ一人。 判っていて、だからこそ、挑まずにはいられなかった。 指揮官ではなく戦士として、己が腕1本で自分の命に決着をつけたかった。 (悪くない) 彼は最期の相手として申し分ない。小柄な体が縦横無尽に甲板を駆ける。何て身の軽い。しなるようなバネと細い体が、曲線の動きを作りだしている。 どこかで見たことがある動きだ。まるで舞を舞っているかのような。 (――舞?) しゃらん… 突然、軽やかな鈴音がトロイの頭の中に鳴り響いた。 しゃらん…しゃらん…しゃらん… 鈴の音に合わせて、白い布が揺れる。目と指先以外を真っ白な布で覆った舞姫が、燃え上がる炎を背景に踊っている。 それは息抜きを兼ねて訪れたオベル王国の視察で見た光景だった。舞踏になど興味のなかったトロイだが、彼女の踊りには目を奪われた。 貴賓席に挨拶に来た舞姫に部屋へと案内された後、勧められるまま杯を重ね、翌朝気だるい疲労が残る体に、己の自制心に裏切られた事を知り愕然とした。 今まではどれほど深酒しても、理性を失ったことなどなかったのに。シーツに残る残滓と仄かな甘い香りが、夢ではなかった事を告げていた。 ぼんやりと形が判る程度にまで明かりを落とした部屋で、恥らって体を隠す舞姫の、青い瞳を美しいと思った事だけ覚えている。 群島の海のように青く、涼やかで澄んだインディゴブルーの―― 「――まさか」 顔面でぶつかり合った刃越しに、相手の瞳を見据える。 ありえない。舞姫は女性だったはずだ。幾らなんでも男と間違えるはずは。 黒いシャツから覗く細い手足と、発達しきらない中性的なラインは、女性と言っても通用する体ではある。 だが彼女は舞姫でありながら娼婦だった。明かりを落とす前に見た白い首筋に散る無数の赤い鬱血を痛々しいと、呟いた自分の声が耳に残っている。 トロイの視線の変化に気づいたエイルが、ふっと小さく笑った。嘲笑などではなく、どこか悲しげに。 「思い出したの?」 「!!やはりお前だったのか。あの娘は…」 キン…っと剣同士が弾けて、二人の間に距離を作る。 間髪置かず懐に飛び込んできたエイルの剣を受け止め、トロイはエイルにだけ聞こえる低い声で言った。 「何故殺さなかった。それが狙いだったのだろう。あんな手段まで使って…」 「――最初はそのつもりだったよ。でも…気が変わったんだ」 エレノア特製の薬入り酒で心の枷を解放したトロイの、冷たい美貌とは裏腹な優しい言葉を聞いているうちに。 腕を引き寄せられ、抱きしめられても、逃げる気になれなかった。 むしろ自分から腕を伸ばした。抱いている躰が男だと、彼が気付かないでくれる事を祈りながら。 リノが付けた跡にトロイが反応したのを見て、本気で後悔した。以来、リノには一切付けさせていない。その腕を拒むことまではしなかったけども。 唇だけは…もう重ねる気になれなかった。 目の前のこの男に、心を奪われてしまったから。 「エレノアさんの命令とはいえ、あんな作戦引き受けなければ良かったよ。あなたになんて…会わなければ良かった」 泣きそうに瞳を歪ませ、自嘲めいた呟きを洩らすエイルの表情は、トロイにしか見えない。 「こんな気持ち知らなければ、苦しまずに済んだのに……。行かなければ良かった。抱き返さなければ良かった。あなたなんて愛さなければ良かった…!」 「……っ――」 バッと視界に赤が散り、続いて焼け付くような痛みが胸を襲った。 袈裟懸けにつけられた傷から、鉄くさい液体が溢れ出す。 「…私が…憎いか」 崩れそうになる足を踏みしめ、トロイはエイルを見返した。 心は不思議と落ち着いていた。傷の痛みよりも、後悔よりも、少年のことが気になった。 自分がいなくなれば、彼は救われるのだろうか。 「憎めるものなら、とっくにそうしてる」 「おい、船が沈む!戻れエイル!」 振り注ぐ仲間たちの必死の声に背を向けたまま、エイルはトロイへと近づいた。 自分が付けた傷にそっと手を触れ。 「僕の役目は終わった。親友の願い通り彼の首を落とし、同じ運命を持つ仲間は支えてくれる人ができた。あの人ももう形代は必要ないだろう。もう……僕は消えてもいいだろう…?」 「エイル!!」 本格的に船が浸水を始め、オベル船から悲鳴が上がる。「待ってろ、助けに行く!」の声に、エイルが振り返り。 「来るな」 「エイル……」 笑みさえ浮かべた穏やかな命令に、飛び移ろうとしていたハーヴェイの足が止まる。 「最後の命令だ。船はこれよりオベルへと航路を向け、直ちに出立せよ。今後半年の間、この海域に足を踏み入れる事を禁じる。罰の紋章は僕が持っていく。――さよなら」 「エイル!!」 「エイルさんっ」 「エイル様っ…どうして……!」 エイルを説得するには、時間が絶対的に足りなかった。船の沈没時の渦から逃れる為に、仲間たちの悲鳴を残して、オベル船がゆっくりと離れていく。 ブリッジも泣く泣くの選択だったことだろう。これ以上留まれば、流石のオベル船でも損害を被る。 それにエイルの命令に背ける者など、この船にはいないのだ。艦長の命令は絶対――それが船に乗る者の掟。 それでもエイルの左手に罰の紋章がなければ、ハーヴェイは、他の正義感溢れる仲間は、無理にでも連れ戻した事だろう。 呪いの紋章への恐怖が、彼らの足を留めた。 エイルを説得できる可能性を持つ二人のうち、オベル王は別働隊で負った傷の手当てを受けている最中で、エレノアはエルイール要塞陥落後行方知れずだった。 「……いいのか…?」 貧血でふらつく体を支えてやりながら、エイルが問いかけに答えた。 「僕はずっと、僕という存在をこの世から消したかった。僕が存在した形跡も何もかも。死にたい訳じゃない。生まれて来たくなかっただけ。誰も僕を覚えていなくていい。無に還るのが僕の望みだった」 「……無理な事を。お前は既にこうして存在してしまっている。有は無には戻れぬものだ」 「判ってるよ。だからこそ、無に焦がれるんだ」 エイルは血に濡れた手のひらで、トロイの頬に触れた。呼吸の粗い唇に、そっと自分のそれを重ねて。 「僕の一番の望みは叶わないから、二番目を貰う。あなたの体を手に入れる。冷たい海の底であなたの亡骸を抱きながら、紋章の番人を永遠に務めるよ」 「こんな体…手に入れても仕方ないだろうに」 「心を貰うよりは役に立つさ。心なんて不確かなものと違って、物体は裏切らない」 「確かに、正論だな……」 小さく微笑み、トロイは離れようとしていた顎を掴んで引き寄せ、唇を塞いだ。 あの夜のように、荒々しく唇を貪る。 互いの肺に残った酸素が、彼らの吸い込んだ最後の空気となった。 出会わなければ良かった。 愛さなければ良かった。 そうすれば、こんな苦しい思いをせずに済んだのに。 僕はあなたを恨むよ。 僕を抱き寄せたあなたを、僕を捕らえたあなたを恨む。 ああ、あなたの記憶を持つ僕を、跡形もなく消してしまいたい。 海面が遠のいていく。 光が遠のいていく。 抱きしめていた体は先に沈んで行ってしまった。結局、肉体すら手元には残らない。 空気の泡が光を反射してきらきらと輝くのを、綺麗だなと思う。 死ぬんなら海でと決めていた。赤ん坊の頃海からやって来て、今こうして全ての始まりである海に還る。 ずっとこの瞬間を求めていた。 辿り着いたのだ。恐怖も疑念もなく、そう思った。 最後は「一欠片」に続いてます。そしてトロイ暗殺作戦の裏話を貰ってしまいましたvありがとうございます! |