カサリ、と足の下で乾いた音がした。
赤い絨毯に覆われた、獣道のようなか細い道を進む。風が吹くたびに、枝にしがみ付いていられなくなった枯葉が空に舞う。
視界は辺り一面紅一色だ。見知った筈の道が、どこか余所余所しく感じられるのは、この季節の姿を見たことがなかった所為なのか。
赤いトンネルを抜けると、不意に開けた場所に出た。
端から端まで大人の足で三十歩程度の、僅かな広場だ。南側の日当たりのいい所に、久しく使われていない様子の猟師小屋が建っている。
小屋の横には小さな畑がある筈だったが、鬱蒼と伸びた草木に覆われ、それらしき物は見当たらない。
理由は知っている。先ほど村の人々に聞いて来た。この目で確認してきた。証拠もここにある。
手の中の小さな石を握り締め、小屋を見据える。
かつて一時過ごした家を、見つめる。



   up the wind  



「おはよう、テッドくん!」
やたらとハイテンションな声と共に、体を覆っていたマントが一気に取り払われた。
「外は凄くいいお天気だよ。さあ、早く起きて起きてっ」
「……んー…」
安眠を妨げられぼんやりと目を開けると、アルドが楽しそうにテッドから剥いだばかりのマントを畳んでいる。
テッドは埃臭い固いベッドの上で、荷物を枕に横になっていた。就寝前の記憶を辿って状況を理解すると、文字通り飛び起きる。
「え、もう日が昇ってるのか!?」
「うん。早起きのテッドくんが、僕より遅くまで寝てるなんて珍しいね。旅の疲れが出たかな。ずっと野宿続きで、屋根のある所で寝たのは久しぶりだったしね。やっぱり家の中はいいよねぇ。獣やモンスターに襲われる心配はないし、雨に濡れなくて済むし」
「マジかよ…」
窓からは、爽やかな日差しが差し込んでいる。
どんなに寝た時間が遅くても、朝日の届かない締め切った家の中でも、空が白んでくれば勝手に目が覚めていたテッドだ。
寝坊して他人に起こされるなんてここ数十年なかった経験で、テッド自身が一番驚愕している。
(何で目が覚めなかったんだ?)
腕組み胡坐の格好で首を捻るテッドを他所に、アルドは次々と歪んでガタついた重い雨戸と窓を開けて行く。澱んだ室内に、新鮮な空気がそよぎ込む。
「とは言っても今のこの家じゃ、昨日の雨位ならともかく、大雨になったら野宿と大差なくなっちゃうけどね。雨漏りの大合奏は楽しかったけど」
室内には、水の入った大小とりどりの入れ物があちこちに置いてある。その周りには、受け止め切れなかった雨水が小さな池を作っていた。天井板の隙間から覗く幾つもの太陽の光が、雨の代わりに容器に降り注いでいる。
雨漏りの難を逃れたベッドの上で、雫が弾ける音を子守唄に、昨夜テッドとアルドは肩を寄せ合うようにして眠ったのだ。

「溜まっていた洗濯物も、この際一気に洗っちゃおう。裏手に古い井戸をみつけたんだ。まだ涸れてないし、水も綺麗だよ。これで水の心配はなくなったね。屋根の修理と洗濯は僕がやるから、テッドくんは家の掃除とお昼ご飯の支度をお願いするね。午後は一緒に買出しに行こう。食べ物とか日用品とか、足りないものを買いこんでこなくちゃ」
「あ、ああ……」
「今日は忙しいよ。ボーっとしてる暇なんてないんだから。さあテッドくん、朝ご飯にしよう!」
いつになく強引なアルドに引きずられるようにして、数分後には、二人は外で焚き火を挟んで、パンと干し肉とドライフルーツの朝食を摂っていた。
「はい、テッドくん」
「サンキュ」
アルドが差し出した熱いコーヒーを受け取る。夏が近いにも関わらず、朝はかなり冷え込んでいた。大分北上して来たようだ。 
簡単な食事を済ませると、先ほどアルドが言った通り、二人はそれぞれの仕事に分かれた。
アルドは今着ている服以外の洗える物全てと、小屋の中にあったカビ臭いシーツを次々と運び出して、井戸の脇に山と積み上げ、鼻歌を歌いながら楽しそうに洗濯している。
テッドも桶に井戸水を汲み、小屋の中を掃除し始めた。蜘蛛の巣を取り払い、埃の溜まったベッドを叩き、床の水溜りを拭き取り、全体に雑巾掛けする。
昨夜は暗くて判らなかったが、小屋は石造りで基礎がしっかりしていて、ずっと放置されていた割にそれ程傷んではいなかった。これなら素人修理でも大丈夫そうだ。
とりあえずベッドと台所を優先的に掃除した後、テッドは残っていた僅かな野菜と芋を煮て潰したものをパンに挟んでサンドイッチを作り、アルドの所に持っていった。
「うわ、圧巻だなー…」
外に出ると、木々の間に渡したロープの間で大量の洗濯物がはためいていた。シーツやマント類が場所を取っているので、余計に量が多く見える。
「おーい、アルド?」
洗濯物の壁を縫うようにしてアルドを探すが、何処にもいない。
「テッドくん、こっちこっち」
声の方を振り返ると、屋根の上に長身の姿があった。小屋の脇に梯子が立てかけてあり、薄く切った木材を抱えたアルドが手を振っている。
「どこから持ってきたんだ、その板」
「小屋の脇に、薪と一緒に置いてあったんだ。修繕用に用意してあった物らしいよ。大工道具も揃ってるし、お陰で早く修理が終わりそうだよ」
「そいつはよかった。とにかく一旦休憩にしようぜ」
「うん。今下に行くよ」
体格に似合わない猫のような身軽さで、アルドはするすると梯子を降りてきた、
日当たりのいい場所は洗濯物に取られてしまっているので、二人は井戸の淵に腰掛けて昼食を摂った。
大量のサンドイッチが、みるみるアルドの胃の中に消えて行く。
「よく食うな、お前。いつもは体の割に小食の癖に」
「一杯働いてお腹が空いたんだよ。お天気が良くて、いい家がみつかって、もう寝る場所や食糧の心配もしなくてよくなってほっとしたし。何よりテッドくんが作ってくれたサンドイッチが凄く美味しくて!」
長い黒髪を風に揺らしながら、アルドが嬉しそうに空を見上げる。
「本当にいいお天気だねえ。青空を眺めていると、それだけで幸せな気持ちになれるよ。ここは標高が高いから、夜は星がよく見えるだろうね。そうだ、夜になっても晴れていたら、屋根に上がって星を見ようよ」
「今更天体観測かよ。星なんて野宿の度に散々見てるだろうが」
「星は毎晩見ても飽きないよ。星だけじゃなくて、空も草木も海も、自然のものは見飽きる事はないよ。同じようでいて、毎日少しずつ姿を変えてる」
「……わざわざ屋根に上がらなくたって、下で充分だろ」
「少しでも高い所で見たいんだ。それに屋根の上に寝転がるって楽しそうじゃない?滅多に出来ない体験だよ」
ね、と子供のようにはしゃぐアルドに呆れた顔をしつつも、テッドも満更ではない。
「だったらしっかり修理してくれよ。修理直後に天井踏み外して、星を見ながら寝るのはごめんだぜ」
「家の中なのに、野宿の気分になっちゃうもんねえ」
声を立てて笑って、アルドが手にしたサンドイッチの残りを口に放り込む。腹ごしらえを済ませた二人は、再び作業に戻った。
屋根の上のアルドに、掃除の合間に下からテッドが穴の位置を教える。一つ、また一つと屋根から差し込んでいた光が消えて行き、最後の一つが塞がった後、金槌の音が止んだ。
テッドの方も、小さな小屋のこと、一人で掃除してもそれ程時間はかからなかった。テッドが最後に雑巾を絞っている所へアルドが戻ってくる。
「修理終わったよ。これで台風が来ても大丈夫!テッドくんは?」
「こっちも丁度片付いた所だ」
「じゃ急いで買い物に行こう。美味しい物があるといいね。昨日のおじいさんにもお礼を言いに行かないと」
狩猟小屋から村までは、半刻ほど歩いた距離だった。
山間の小さな村で、人々の服装を見渡しても決して裕福とは言えない。だが住民の表情は明るく、素朴な笑顔に溢れている。
すれ違った人のよさそうな中年の女性に、食料品を買える店を教えて貰い、オレンジを買って、二人は村の入り口に近い一軒の道具屋を訪ねた。
「いらっしゃい…って、やあ、あんたらかい」
ドアの開く音に顔を上げた老人の顔が、アルドとテッドの姿を捉えて人懐っこく緩む。
「こんにちは。昨日はお世話になりました。凄く助かりました。これ召し上がってください」
アルドは持ってきたオレンジの包みをカウンターの上に置いた。皺だらけの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「ありがたい。わしはオレンジが大好物でね。小屋の方はどうだね。ずっと使っとらんかったから傷んどるだろうが、ちょっと手を入れてやれば充分住めるはずじゃ」
「ええ、早速今日修理しました。掃除もしてぴかぴかですよ。いい家を紹介して下さってありがとうございました。昨日こちらに来なければ、雨の中の野宿になっていました」
「修理前じゃ野宿と大差なかったかもしれんが。雨漏りが煩かったじゃろ」
言葉よりも雄弁なアルドの表情に、道具屋の老人は豪快に笑った。
「若者はどんどん大きな町に出て行ってしまい、残っているのは年寄りばかり。お前さんたちのような若い人が、住み着いてくれるんは大歓迎じゃ。あの小屋はわしが若い頃に使っていたものじゃが、足を痛めてからは、あそこまで行くこともできんようになった。息子夫婦もとっくに村を出て行ってしまって、文句を言う奴もおらん。家賃もいらんから好きに使ってくれるがええ」
「それは困ります!ちゃんと家賃を払わせてくださいっ」
慌てて財布を探るアルドを、老人はやんわりと止め、
「使わない家は朽ちるだけじゃ。誰かに使って貰えば、家はまた生きられる」
「お爺さん……」
どうしてもと言うのなら、うちで買い物をして行ってくれと言う老人の厚意を受け、二人は要らなくなった品物を売り、代わりに毒消しやお薬など必要な物を買い込んで店を後にした。
「何だか申し訳ないね」
「爺さんがいいって言ってるんだから、素直に甘えとこうぜ。金は節約できるならそれに越した事はないからな」
途中何度も道具屋を振り返っていたアルドも、テッドの言葉に納得したのか、小さく頷いて、二人は再び食料品店に向かった。
今度は一週間分の食糧だ。普段は日持ちする必要最低限の食材しか買わないテッドが、店の全種類の品物を買う勢いで、値段も見ずに次々とカウンターに品物を積み上げていく。
店主は「一度にこんなに買われたのは初めてだよ」と目を丸くしながら、何とか2人が持ち帰れるよう、工夫して袋に詰めてくれた。
両手に大荷物を抱えた二人が小屋に戻った頃には、日が暮れかけていた。
アルドは慌てて大量の洗濯物を取り込みに行き、テッドは買ってきた食材で夕食の準備にかかった。二人で旅をするようになってから、暗黙のうちに決まった分担だ。
ずっと森で一人で暮らしていたアルドは、屋外食は作れても家庭料理は作れない。野営時は交代でやっているが、自炊ができる宿に泊まった時は、食事の支度はテッドが一手に引き受けていた。
アルドが洗濯物の山を畳み終え、ベッドメイクを終えた頃、手早さが自慢のテッドの料理も完成した。野菜と肉を切って炒めただけの、男の料理だ。それにキャベツのスープを添えて、買ってきたパンを切って出せば、立派な夕食だ。
「美味しいよ、テッドくん」
テッドの料理を、アルドはいつも美味しそうに食べる。好き嫌いも特にないそうで、何を出してもぺろりと完食してくれるのは、作った側としては嬉しい。
「今日は時間がなくて大した物作れなかったけど、明日は美味いもの食わせてやるから」 
「これもすごく美味しいよ。明日のご飯、楽しみにしてるね」
「何か食いたいものあるか?」
作り甲斐のある相手には、腕を振るってやりたくなるのは当然で。身を乗り出したテッドに、アルドは少しだけ考え込み、
「そうだなぁ……テッドくん、シチューって作れる?」
「作れるぜ。牛乳もバターも小麦粉も買ってきたし、明日はシチューにするか?」
「うん。シチューは宿屋に泊まった時でもないと中々食べられないでしょう。じっくり煮込んだ野菜のシチューが食べたいな」
「判った。任せとけ」
食事の後は、軒先に逆さまにしてあった大きなドラム缶で風呂を沸かした。緑の匂いの漂う森の中、久しぶりの熱い湯に交代で浸かって汗と旅の疲れを流した。
そして火照った体を冷ますのも兼ねて、昼間の約束どおり、屋根の上に並んで寝転がって満天の星空を眺めている。
「晴れて良かったねぇ」
「ああ」
「屋根って斜めに傾いているから、星を眺めるのにいいね」
「そうだな。思ったよりも快適だ。下から眺めるよりずっと見やすい。首も痛くならないしな」
「絶好の観測スポットだね」
笑いながら、アルドが星空に向かって左手を伸ばす。
「凄い明るさ…星が掴めそう」
一際大きく輝く一等星を、アルドの手がぎゅっと掴んだ。
「はい、テッドくんにあげる」
手の中に何もない事は判っていたが、テッドはなんとなく、差し出されたその手を素直に受け取った。拳がテッドの手のひらの上でゆっくりと開き、手を握られる。
「アルド…」
風呂上りの為、二人とも素手だった。アルドの前では紋章を隠さなくなったテッドだ。むしろ二人きりの時は敢えて紋章を晒すようにしていた。アルドと自分への警告として。
他人に右手に触れられると、言いようの無い不安感を感じる。紋章から死神の影が立ち上り、今にも相手の魂に喰らいつきそうな錯覚を覚える。
だがこの時、テッドは体を強張らせながらも、手を振り払おうとはしなかった。
アルドは静かな表情で、じっとテッドを見つめている。まだ束ねていない濡れ髪は、アルドのシャープな目元をいつもより柔らかく見せている。
「―――!」
急に世界の音が遠くなった気がした。先ほどまで煩いほど鳴いていた虫の声が全く聞こえない。代わりに耳に届くのは、やたらと遅い己の心臓の鼓動音。
ドクン…ドクン…ドクン…
足先からゆっくりと、全身が冷たくなっていくのを感じる。
繋いでいる右手だけが温かい。まるでこの手だけが、世界のぬくもりの全てであるような。
にこ、っとアルドが笑った。
「あれが夏の大三角かな?ベガでデネブでアルタイル」
繋いだままの手を空に伸ばして、アルドが輝く星を順繰りに指差した。
途端に音が戻ってくる。滞っていた血液が、酸素を抱えて再び全身を駆け始める。
「どう?合ってる?テッドくん」
「あ、ああ……そうだよ」
ほっと体の力が抜けた。そのまま手も解こうと指を開くが、逃がすまいとするかのように強く握り締められた。向けた抗議の視線は、再び色素の薄い透明な瞳に吸い込まれてしまう。
「アルド……」
「一日って短いね」
テッドから空へと視線を戻し、アルドが続ける。
「生活に必要な毎日の日課だけで、あっという間に時間が過ぎて行く。子供の頃は一日が長くて長くてしょうがなかったのに、大人になるって不思議だね。船にいた頃、コンラッドさんが言ってた。年を取るにつれて、時間はどんどん短くなるんだって。一日は本当に、瞬きのようだって。テッドくんはどう?」
「え……」
問われて考え込む。確かに子供の頃に比べれば、一日が過ぎるのは早い気はするが、年寄りたちに賛同できるほどではない。
「テッドくんは紋章があるから、違うのかもしれないね。コンラッドさん程じゃないけど、僕も最近は時間が経つのが早いなぁと思うよ。そういや小さい頃でも、楽しいことはあっという間に過ぎたっけ。楽しいから余計にそう感じるのかもね」
「………」
口を挟む事も出来ず、テッドはじっとアルドの言葉を聞いている。夜風に晒され肌は冷えているのに、繋いだ手だけがじっとりと汗ばんでいた。
汗をかいているのはどちらの手なのか。
「さあ、そろそろ寝ようか。夜更かしして朝寝坊したら、勿体無いからね。こうしてテッドくんと一緒にいられるのも、後六日しかないんだし」
「……っ……」
アルドらしくないどこか皮肉めいた言い方に、テッドの体が再び強張る。
するりと手が離れ、アルドは梯子を伝って降りていった。
続いてドアが開いて閉まる音。アルドはテッドを待つことなく、室内に戻ってしまった。
残されたのは、汗が冷えて冷たくなった手のひら。 
それをぎゅっと握りこんで、ズキズキと痛む胸に押し当てる。
痛い。
痛い。
心が、痛い。
自分が言い出した事なのに、心臓が潰れてしまうくらい痛い。辛い。悲しい。今からでも取り消す事ができたならどんなにか。
なまじ自分を偽らない一日を過ごしてしまっただけに、「終わり」への恐怖は今まで以上となった。六日。後六日経ったら、あの優しい笑顔も、温かい手も手放さなければならない。
アルドの、為に。
オベル船を降りた後、追いかけてきたアルドと二人で旅するようになって半年。絶えず囲まれていたからかいの目から解放された事により、テッドの自戒は徐々に鳴りを潜めて行く。
テッドの数歩後ろをアルドが歩く。船に居た頃の定番の距離と位置。
その距離がだんだん短くなり、いつしか並んで歩くようになって、今では隣にいるのが当たり前になってしまった。 
寒い夜は一枚のマントに包まって眠った。一つしかない食べ物は、二人で分け合った。山越えの時などは、数日アルドとしか口を聞かない時もあった。毎日二十四時間、二人きりで過ごすその密度の濃さは、船に居た頃とは比べ物にならない。
元々、船を降りた時に既に危なかったのだ。一緒に行くと言った彼を突き放せなかった時点で、アルドの首には死神の鎌がかけられていた。
判っていて、同行を許可した。
良心に目を瞑り、我侭を敢行した。
共に行く事の危険性より、自分の望みを優先した。
もう少しだけ、アルドに側にいて欲しくて――。
アルドと旅したこの半年間は、本当に楽しかった。
例えばアルドはさっぱりした食べ物が好きで、油っこいものは苦手。意外と手先が器用で、繕い物なんかはテッドより上手だ。泳ぎはあんまり上手くない。酒はそこそこ強い。煙草は臭いが駄目で吸わない。出身は群島の小さな島で、両親は早くに亡くなったという。性格に似合わないピアスは母親の形見らしい。
アルドの新たな一面を知るのが楽しかった。
だからつい、決断を先延ばしにしてしまった。
だけどもう終わりにしなければならない。これ以上一緒にいれば、紋章は必ずアルドの魂を喰らうだろう。
なぜなら自分がソウルイーターなら、もうとっくにアルドの魂を手に入れているはずだから。
――次の町に着いたら、家を借りよう。
必死の思いで、ようやくその言葉を口にした。
――家を借りるって住み着くの?テッドくん、ずっと一箇所に留まるの避けてたのに、どういう心境の変化?
――……俺がそこにいるのは一週間だけだ。俺が出て行った後は、お前の好きにしていい。そこに住むでも、別の町に行くでも…。
――ちょっと待ってテッドくん!それって…僕ともう旅をしないってこと?
唇をかみ締め、アルドから視線を逸らして頷く。
――そうだ。お前とは次の町で別れる。
――何で……僕何かテッドくんを怒らせるような事したっ?僕が嫌になったっ?
――違う。そうじゃないんだ。……もうこれ以上は、お前の命が危ないんだっ!
右手を握り締め、泣きそうな顔で叫んだテッドに、アルドも理由に思い当たったらしい。
――紋章…?
――……ああ。今までは何とか保ったけど、そろそろ限界だ。本当に…いつ喰われてもおかしくないんだ。次の町でと言ったけど、怖かったら今すぐ行ってくれて構わない。
――………。
俯いていても、アルドの真っ直ぐな視線を痛いほど感じた。
アルドの事を思うなら、すぐにでも別れるべきだ。今この瞬間にも、紋章は牙を研いで、極上の魂を狩る機会を狙っている。
この状況で、一週間だけとはいえ宿屋ではなく「家」で暮らす――それがどれだけ危険な事か判っているけれど。
――ありがとう、テッドくん。
アルドがふわっと微笑んだ。愛しさの中に切なさを滲ませた優しい笑顔。
――いい家がみつかるといいね。できれば町中じゃなくて、森の中の静かな家がいいな。その方が落ち着くから。
――……何で!お前が礼を言うんだよ…っ。
閉じた瞳から、雫が溢れないようにするのに必死だった。
判っていた。期待していた。アルドならこう答えてくれると確信していた。
――君が、僕がついて行く事を許してくれたから。黙って行く事もできたのに、別れを惜しむ猶予をくれたから。まあ、本当に黙って行かれたら、僕は絶対追いかけたけどね。
アルドは肩を竦めて悪戯っぽく笑った後、 
――あのね、テッドくん。一つだけお願いを聞いてくれるかな。  
――お願い…?
――一緒に暮らす間、紋章の事は忘れて欲しいんだ。紋章が、僕の命を奪うかもしれない事に脅えないで。テッドくんは普通の十四歳の男の子で、僕はその友達。二人で一杯楽しい事をしよう。毎日笑って過ごそう。その一週間だけは、テッドくんの本当の笑顔を見せて欲しいんだ。
――アルド…っ…!
それはテッドの願いそのものだった。
拒み続けてきた手を取ること。アルドの前で素直になること。辛い選択を選ぶ為の、理性との交換条件。
軋む梯子に足をかけ、テッドも屋根を降りた。室内に戻ると、寝室の一つしかないベッドに、アルドがこちらに背を向けて横たわっている。
ベッドはどちらが使うかという話になった時、一日ごとの交代案も出たが、結局一緒に寝る事にした。男二人で寝るには狭いベッドだが、寝返りも打てない岩穴で一晩を過ごす事を考えればよっぽど快適だ。
ランプの油を絞った薄明かりの中、テッドは夜着に着替えると、アルドが空けておいてくれたベッドの半分に身を滑り込ませた。隣からは一定のリズムの呼吸音が聞こえてくる。
「おやすみ」
眠ったフリをする同居人に挨拶をして、テッドも目を閉じる。
背中に感じる温もりが、中々テッドを寝付かせてはくれなかった。

(テッドくん……)
長い静寂の後、ようやく背後から静かな寝息が聞こえてきて、アルドは伏せた目を開け、ほっと息を吐いた。
目が冴えて、眠れそうもなかった。
染みだらけの壁をみつめながら、今日一日を振り返る。
家事をして、買い物をして、食べたい料理のリクエストをして。今までだって、自炊式の宿屋に泊まった時にはして来たこと。
だけど今日は違った。やっている事は同じでも、二人の気持ちが違った。テッドとの間にある見えない壁が、今日は薄く感じた。明日はもっと薄く感じるだろう。明後日は更に薄くなり、最後の日には、壁越しではないテッドの笑顔を見ることができるだろうか。
舌なめずりする紋章から逃れる為の別離なのに、逆に喉元を晒す事になる矛盾した同居生活。
紋章が人の魂を奪う事に、病的なほど脅えているテッドが、その感情を押し殺してまで提案してくれたのは、アルドの為だけではない。
テッド自身が、アルドと共にありたいと願ってくれた。
テッドが望まなければ、喪失の恐怖と戦う決意はできない筈だ。
別れは寂しい。この半年で、どれだけ彼に近づけた事だろう。拒絶の背中しか知らなかった船の頃と違い、感情が読みやすい子供っぽい横顔や、手袋越しではない手のひらの温かさを知った。
砂の上に残った、並行に続く足跡。宿屋に泊まれば、当然のように取られる一部屋。
もうアルドが「勝手に付いて来ている」のではない。
肩を並べて共に歩く、対等な同行者だ。
この関係が終わり、また一人に戻るのはとてつもなく寂しい。
だがテッドの想いに逆らう術も、つもりもアルドは持たない。
何故なら、これ以上の望みはテッドを苦しめるだけだと判っているから――
ずっと心を閉ざしていたテッドが、今ではアルドの事を認め、受け入れてくれている。アルドと同じ気持ちでいてくれる。
だからアルドもその気持ちに寄り添うのだ。限られた時間を悔いなく過ごせるよう、テッドの長い人生の中の暖かい思い出になれるよう、精一杯頑張ろうと思ったのだ。
(テッドくんが僕の事を思い出す時は、いつも笑顔でいられるように)
一週間を、楽しい思い出で埋め尽くそう。




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