「起きろよ、メシにしようぜ」
翌朝はいつもの通り、テッドがアルドを起こした。結局明け方まで寝つけず、寝不足でぼーっとしているアルドにタオルを押し付け、顔を洗って来いとテッドが笑う。 冷たい井戸水で顔を洗うと、すっきり目が覚めた。ひんやりとした朝の冷気が心地いい。慣れ親しんだ緑の匂いを胸一杯に吸い込み、大きく伸びをする。 「よし、今日も一杯楽しい事をするぞーっ」 「おーい、早くしろよ」 家の中からテッドが呼ぶ声がする。アルドはもう一度大きく深呼吸をすると、弾んだ足取りで室内へと戻って行った。 それから二人は、たくさんの事をした。 一緒に食事をし、日中は洗濯や掃除などの家事をし、買い物に出かけて、晴れていれば夜は屋根の上で星を見た。 小屋から少し山奥に入った所に天然の温泉を発見し、風呂はここまで入りに来る事にした。「ネイ島を思い出すね」とアルドが言い出したのをきっかけに、船にいた頃の思い出話に花が咲いた。どこの島の料理が美味しかったとか、泉質はモルド島が一番良かったなどの他愛ない話ばかりだ。 お前も少し家庭料理を覚えろと、夕食の下ごしらえはアルドも手伝う事になった。小さなナイフで器用にじゃが芋の皮を剥く癖に、包丁とまな板を使わせると途端に危なっかしい手つきになるアルドに、テッドが呆れた声を出す。 まな板は使ったことないからと言ういい訳は却下され、横から厳しい駄目出しが飛ぶ。「ほら、猫の手!」「はいいっ」騒がしくも楽しい調理風景が、毎晩繰り広げられる。 アルドは家の横に畑を作った。野菜を作るのが憧れだったんだ、とアルドは言った。アルドの気持ちはテッドにも判る気がした。 「家」を持たない狩人にとって、大地と共に生き、植物を育てる農業は確かに憧憬だ。 二人とも畑の知識はなかったので店で詳しく聞いて、今の時期ならと店主が勧めてくれた、大根の種と葱の苗を買って来て植えた。 五日目の夜は丁度村の夏祭りの日で、燃え盛る炎の周りで踊る人々の輪に混ざって、見よう見まねでぎこちない踊りを披露した二人に、料理自慢の女たちが、持ち寄った料理を次々と皿の上に乗せていく。「兄ちゃんたち、裏山の小屋に住み始めたんだってな。歓迎会をやらなくちゃなあ!」酔っ払った男が、二人にグラスを持たせて並々と酒を注ぐ。 普段は「体は子供なんだから…」と深酒を止めるアルドも、何も言わない。注がれた酒をおいしそうに飲み欲したアルドは、酒を勧めた男に「いい飲みっぷりだ!」と肩を叩かれている。 テッドはといえば、噂話の好きなおばちゃんたちに囲まれ質問攻めにあっていた。 何処から来たの。へえ、海から。大変だねぇ、道中危険なことはなかったかい?二人とも弓使いなんだってね。だったら狩猟小屋に住み着いたのは正解だね。あの辺りはいい狩場だよ。ところで、あんたたちどういう関係なんだい?肌の色も髪の色も違うし、兄弟って訳じゃなさそうだけど。 「……友達、だよ」 暫く言葉に詰まったテッドに、女たちは好奇を含んだ意味深な視線を交し合う。テッドが怪訝そうに周りを見渡すと、テットの隣に居た中年の女が、詮索の輪から外れて一人座っている若い女性をちらりと振り返り、少しだけ声を落として言った。 「いやね、あんたたちがあんまり仲がいいから、いい関係なんじゃないかって話してたんだよ。いっつも一緒にいるもんだからねえ。こらこら、怒らないどくれ!娯楽のない田舎じゃ、他愛無い噂話が唯一の楽しみなんだ!何にせよ、これでこの子にも希望が出てきたってもんだ。この子ってば、あんたのお連れさんのことが気になるらしくてね」 どっと笑う一同の声に、悲鳴のような甲高い声が重なる。 この場で唯一の妙齢の女である彼女は、顔を真っ赤にしている。テッドと同じ栗色の髪の、大人しそうな可愛らしい女性だ。アルドと並んだら似合いのカップルだろう。 テッドがこの町を出て行った後、それは現実になるかもしれない。 今はテッドと暮らすあの家に、彼女と、二人に良く似た子供が走り回る光景が浮かび、打ち消すように勢いよくグラスを呷る。 女がテッドに彼女とアルドの仲介を頼もうとした所へ、当のアルドが酒でほのかに上気した顔でやってきた。途端、彼女は恥ずかしそうに女の影に隠れた。 「テッドくん、踊ろうよ!」 テッドの手を引いて、アルドが踊りの輪に加わる。背後からは残念そうな溜息と、色めいた含み笑い。女達の、やっぱりそうなんじゃ…でも…という不躾な視線を無視して、目の前のアルドと踊りに集中した。 振りは単純な繰り返しだが、全身を使う激しい踊りだ。滲んだ汗が飛ぶ。炎を背景にアルドの黒髪が揺れる。 「テッドくん、何か言われた?」 踊りの合間に、アルドがそっと耳打ちして来た。テッドが困っていると思って連れ出してくれたらしい。 「んー、女って変なとこ勘がいいよな」 こんな風に顔を近づけていたら、また彼女たちが喜ぶだろうが、そこはわざとやっているテッドだった。 知り合ってから今までで、一番濃密だった一週間の最後の日。 生憎と、外は昨夜からの台風が猛威を振るっていた。吹き付ける激しい雨と風に、小屋が軋む。雨戸をしっかり閉め、薄暗い家の中でランプの明かりの元、食事をとる。 人生は食べることだと言ったのは誰だったか。まさに名言だと思う。三回の食事と、それに伴う調理と片付け。自給自足生活だったら、材料を手に入れるところから始めなければならない。作って食べて片付けてを、間を置いて三回繰り返すと、案外残りの時間は少ないものだ。 昨日台風が来る前に被せておいた、畑の風雨避けの覆いが外れていないかを確認した後、アルドは不意に被っていたマントを脱ぎ去った。 「折角の台風だし、思い切り濡れてみようよ!」 雨に濡れるなど珍しくもないだろうに、安全な「家」での生活が旅の記憶を薄れさせるのか、アルドは子供のように台風が齎す自然の脅威を受けてはしゃいでいる。 これだけの暴風雨ではどっちにしても濡れるのだからと、テッドも水を吸って重くなったマントを脱いだ。水を滴らせたアルドが、テッドを振り返ってにっこりと笑う。 「うわっ」 気の抜けていた所に強風に煽られ、テッドがよろけた。とっさにアルドがテッドの腕を掴み、胸に抱きこむ。 「大丈夫?僕が支えているから」 その瞬間、横からの突風で二人の体が傾いだ。 何とか踏み止まるが、気まずい沈黙が流れる。 「ぷっ……あはははっ!」 堪えきれずに、テッドが豪快に笑い出した。しょぼんと沈むアルドの背中に手を回し、雨に負けないよう大声を張り上げる。 「大丈夫かーっ。俺が支えてやるよっ」 肌に張りつく服の不快さとは逆に、自分ではない温もりが心地いい。 珍しいテッドの大笑いに驚いて目を見開いていたアルドも、回した腕に力を込め、同じように声を張り上げた。 「お願いするよ!本当凄い雨だねーっ」 台風は容赦なく二人に叩きつけてくる。 大量の冷たい雨は、溢れた雫が頬を温める間を与えはしなかった。
「ほら、タオル。しっかり拭けよ」
小屋の入り口で濡れた服を脱ぎ捨て半裸になったテッドが、室内から乾いたタオルをアルドに放る。 「お前もそこで脱いで来い。家の中が濡れるからな」 「うん。凄いや、服が絞れる」 テッドに倣い、アルドもびしょぬれの服を脱ぐ。 現れた見事な胸筋に、同性とはいえ何やら気恥ずかしいものを感じて、テッドが視線を逸らした。性別問わず、他人の裸は意識してしまうと恥ずかしい。 「お風呂に入れれば良かったんだけどね」 水分を拭い、乾いた服に着替えても、体はまだ冷えている。この雨の中温泉に行くのは無意味だし、ドラム缶風呂は野外でしか使えない。 「体の中から温めるしかないな」 毛布を被り、お湯割の焼酎で暖を取った。 二人とも話題のきっかけがつかめなくて、無言のままグラスだけが重なっていく。 つまみもなく急ピッチで酒を飲んだせいか、次第に酔いが廻ってきた。見れば向かいに座るアルドの目も、半分とろんとしている。 「眠いんならベッドに行けよ」 「んー…ごめんね。そうさせてもらう。ちょっと酔っちゃったみたい」 フラフラとした足取りで、アルドが戸棚の陰に隠れたベッドへと消える。 途端、遠かった風の音が脅威を取り戻した。 (え……?) 嵐の中にぽつんと取り残されたような堪らない心細さを覚えて、ガタガタ揺れる雨戸を反射的に見やる。 (そんな……) 一人で旅をしていた期間の方が遥かに長い。 ずっと一人だったのに。これからまた一人に戻らなければならないのに。アルドはすぐそこににいるのに。 この程度で、こんなに寂しくなってしまうなんて。 (耐えられるのか) 奥歯をぎゅっと噛み締める。 (一人の…アルドがいない生活に、耐えられるのか) 耐えられなくても、耐えなければならない。アルドを死なせたくないのなら。 (俺がいなくなった後、お前はどうするんだ?結婚して子供を作って、幸せに暮らすのか) 自嘲の笑みが、テッドの唇を彩った。 (最低だ) 己の中の醜い感情に、反吐が出そうだ。 あの優しさが他人のものになる位なら、紋章に喰われてしまえばいい、だなんて。 (本当に危険なのは、紋章じゃない。俺だ) (俺の醜いエゴが、たくさんの人たちの命を奪ってきたんだ…) 世界で一番醜悪な宿主を捕らえていた霧の船は、無残に打ち砕かれてしまった。解放された魂喰いは、宿主の深層の望みの通り、愛しい者の魂に狙いをつける。誰にも渡さないように。相手の魂が、宿主のものになるように。 (だけどお前だけは、ソウルイーターにも奪わせない) その為にはどんな苦痛にも耐えるから。 どうか逃げ延びて。紋章からも、愚かな自分からも。 テッドの手の届かないところで、幸せになって欲しい。 酒で火照った体に、シーツの冷たさが心地よかった。 興奮による疲労が一気に出たのか、何時になく酒が廻っている。ぐらぐら揺れる視界と強烈な眠気。 (最後の日だっていうのに、勿体無いなぁ…) 明日はテッドとお別れだ。次に会えるのは何年後か…もしかしたら一生会えないかもしれない。 言葉にするのが苦手なアルドは、気持ちの全てを行動に込める事にした。日常的な会話に、笑顔に、繋いだ手に、抱きしめる腕に、テッドへの好意を、感謝を込めた。 でも最後の日である今日は、できうる限りテッドと会話をしようと思っていたのに。 (夜までに抜けてくれるかなあ…) 一眠りしてもまだ時間はあるからと自分に言い聞かせて、アルドは酔いの齎す眠気に身を任せた。 目が覚めると、頭はすっきりしていた。 悪酔いもせず、うまく抜けてくれたらしい。やや重い頭を押さえて体を起こそうとするが、何かが腹の上に乗っていて動けなかった。 「テッドくん…?」 重石になっていたのは、明るい栗色の髪だった。名前を呼ぶと、ぴくりとテッドの肩が反応する。 「ん……あ、悪い」 テッドが目を覚まして体を起こした。 「夕食作ったら俺も眠くなっちまって。そろそろ飯にするか。今日はご馳走だぜ」 途端にアルドの腹がぐぅっと鳴った。一瞬の沈黙の後、二人同時に吹きだす。 「腹で返事するなよー」 「お腹の方が先に目が覚めてたんだよ。いい匂いもしてるし…これはシチューかな」 鼻をひくひくさせるアルドに、 「そ。お前、凄い気に入ってたから。じっくり煮込んだ力作だぜ」 テッドが屈託なく笑う。 冷める前に食べようと、二人は食卓に移動した。テーブルにずらりと並べられた料理は、アルドの好物ばかりだ。 凄い凄いと感激するアルドに、テッドはちょっと照れくさそうだ。 時間をかけてテッドの渾身の晩餐を味わい、食後に少しだけ甘めの果実酒を飲んで、片付けや武器の手入れをした後、ベッドに入った。 結局、特別な会話はしなかった。下手に意気込んで会話に詰まるよりも、この優しい時間だけで充分な気がした。 ベッドでの位置は、早く目が覚めるテッドが外側、アルドが壁際だ。いつものように背中を向けたアルドは(ベッドが狭く、横向きでしか眠れないのだ)、感じた温もりに驚いて目を開けた。 「テッドくん?」 「……今日が最後、だからさ」 消え入りそうな言葉の意味を悟って、体を捻って反対側を向く。胸の間にテッドが擦り寄ってきた。柔らかな髪を撫でてみる。抵抗はなく、それどころかテッドの腕が背中に回された。 (テッドくん……) 悪夢に脅えて親の布団に潜り込んできた子供のようなテッドを見下ろして、アルドはゆっくりと栗色の髪を撫で続ける。 この手が、テッドに穏やかな眠りを与えられるようにと祈りながら。 出発は早朝だった。 台風は無事通過したらしい。台風の後の鮮やかな青空を見上げ、門出にふさわしい日だとテッドが微笑む。 朝食を食べていけばというアルドに、テッドは小さく首を振った。決心が鈍る前に発ちたいからと。 「元気でな」 「テッドくんも元気で。いつかまたこの村に来ることがあったら、必ず立ち寄ってね。僕が作った野菜をご馳走するよ」 「その時は、野菜だけじゃなくてお前の手料理も期待してるからな。料理の腕磨いておけよ」 「あはは……頑張る…」 「それじゃ、俺もう行くから」 「あ、待って。テッドくん」 未練を振り切るように踵を返したテッドを、アルドが呼び止める。 「これを持って行って」 手の平の上に乗せられたのは、見慣れた小さな緑の石。 「お前のピアス…」 「うん。この石はね、ヒスイって言って身代わりになってくれる石なんだ。僕の代わりにテッドくんを守ってくれるように」 「お前、これ親の形見だって言ってなかったか?そんな大事なもの貰えるかよっ」 「大事なものだからこそ、テッドくんに持っていて欲しいんだ。僕の持ち物で価値があるものはこれしかないから…。本当はセットで渡したかったんだけど、実は数日前、片一方失くしちゃって」 「そんな、だったら余計に受け取れる訳……」 「貰って、欲しいんだ」 テッドの言葉を遮って、言葉を区切り、力強くアルドが言う。 「僕の代わりに、これを連れて行って。お願いだよ、テッドくん」 「アルド……」 吸い込まれそうな薄い茶の瞳が、まっすぐテッドを見据える。 瞳に込められた必死さに、テッドは困惑気に手の平を見つめ――やがてぎゅっと小さな石を握り締めた。 「判った」 「テッドくん」 「お前だと思って大事にする。そしていつか……必ず返しに来るから」 「ありがとう…っ」 二人の笑顔が絡み合う。最高の笑顔を互いへの餞として残し、テッドが背を向けた。遠のいていく背中が見えなくなるまで、アルドは手を振り続ける。 途中一度だけテッドが振り返って、ピアスを握った手を掲げて微笑んだ。 それが互いを見た最後だった。 赤の世界に佇むかつての「家」は、変わらぬ姿で住人を迎えている。 アルドと過ごしたこの村に、テッドは再び戻って来た。 一年ではまだ早すぎて、二年でもまだ心配で、ようやく決心が付いたのはまる三年が過ぎた頃だった。 アルドの隣に誰かがいても笑って祝福できるように、感情に任せて紋章の力を解放してしまわないように、覚悟を決めるのにそれだけの時間がかかった。 すぐに家に向かうのは躊躇われて、先に家の持ち主である道具屋の主人の所に顔を出した。年を取っていない事を怪しまれる懸念もあったが、三年程度なら何とかごまかせる事を経験上知っていた。 そこでテッドは、耳を疑いたくなるような衝撃の事実を聞く。 足の悪い主人の代わりに、道具屋の隣の家のおかみさんに案内され、(祭の夜、テッドにアルドとの関係を尋ねた女性だ)テッドは村はずれの街道に行った。切り立った崖の下に伸びる細い街道は、大量の土砂で埋まっている。 手がなくて復旧のめどが立たないんだよ、と彼女は言った。三年前から、この道は封鎖されたままだ。 三年前。 テッドが旅立った翌日、村に仕事を探しに来たアルドは、台風で地盤の緩んだ崖の土砂崩れに巻き込まれそうになった子供を庇って、代わりに下敷きになったという。 子供はかすり傷程度で無事だったが、救出されたアルドは既に息をしていなかった。 村人はテッドを探したが見つからず、アルドの遺体は件の街道から程近い所にある、村の共同墓地に埋葬された。 三年ぶりの対面は、冷たい石相手だった。 テッドがアルドの面影と格闘していた頃、既にアルドは土の中で眠っていたのだ―― 戻って来たテッドに、「友達を置いてどこに行っていたんだね」と道具屋の主人は鼻をすすりながら、アルドの遺品を差し出した。家の中に残っていた物を、まとめて保存しておいてくれたのだ。 心ここにあらずの状態で主人に礼を言い、テッドは小屋へと向かった。無意識に、懐からピアスを取り出し握り締める。 アルドの名が刻まれた墓石を見ても、実感は湧かなかった。 死んだなんて何かの間違いで、家に行けばアルドが笑顔で迎えてくれる気がした。「久しぶり、テッドくん。元気だった?」…そう、アルドが死ぬはずがない。だってソウルイーターはアルドの側にはなかったんだから。 だが人の気配のない寂れた小屋と、雑草に埋もれた畑を目にした時、テッドはアルドの死を認めざるを得なかった。 「……だから、お前が持ってろって言ったのに」 身代わりになる石をテッドに預け、自分は子供の身代わりになって命を落とすなんて。 「どうして俺が出て行った直後なんだよ…!」 別れる前ならば、看取る事はできなくても遺体をこの手で埋めてやる事ができた。別れて何年か経った後なら、仕方がないことと諦めることもできた。 寄りによってテッドがこの町を去った翌日だなんて、そんな都合のいい話があってたまるものか。 「ソウルイーター!!」 右手の手袋を乱暴に引き剥がし、手の甲に歯を立てる。 「アルドの魂を喰らいやがったな!俺がこの村を出た後に、ご丁寧にも自然災害を起こして!あの日、やたらとたくさんの命を吸い込んだのは、アルドの魂を喰った事を俺に気付かせない為だったんだな!アルドだけはお前にやらないって決めてたのにっ。よくも…よくもぉおおおおっ」 皮膚が噛み千切られ、血が噴出した。口の中に広がる鉄臭い味に、テッドの興奮が頂点に達する。 「殺してやる、ソウルイーター!!」 ぶわっ… 不意に突風が吹いて、視界が真っ赤に染まった。 一瞬血が飛び散ったのかと思ったが、それは辺りを埋め尽くす紅葉だった。赤く色づいた葉っぱが風の勢いを失い、ゆっくりとテッドに降り注ぐ。 「あ…」 緊張の糸が切れたテッドの頬を、熱い涙が伝っていく。 「アル、ド……」 涙は止まる事を知らず、後から後から溢れ出て、赤い枯葉にぽたぽたと染みを作った。 「うわああああっ…………」 ひとしきり泣いた後、テッドは立ち上がった。 目は腫れているが、もう涙はない。 「お前の荷物は持ってはいけないから、ここに置いていくよ。ピアスと弓と矢だけ貰ってくな。代わりに俺の弓をやるよ。こいつならお前の鉄の弓と違って土に還るから、あの世まで一緒に持って行ってやってくれ」 弱々しく微笑んで、遺品と長年愛用して来た木の弓を地面に置き、油をかけて火打石で火をつけた。 アルドの遺品は着替えや生活道具など最低限のものばかりで、彼個人の想いを残すような物は何もなかった。テッドと同じだ。 旅人は余計な荷物を持たない。感傷の代わりに、一つでも多くの食糧と水を。それが旅人が生き残るための鉄則だ。アルドの唯一の「無駄な」品は、既に三年前にテッドに手渡されていた。 揺らめく炎をじっと見据える。衣類はなかなか燃えなかったが、やがて少しずつ灰と化して行った。 それらが燃え尽きるまでの間、テッドは家とその周りを歩き回った。片付けられた家の中には、もう二人の気配はどこにもない。 面影を求めて、夜ではないけれど屋根に上がってみようと、梯子に手をかける。 ふと、視界の端に何かが映った。 「…?」 木の梯子の隙間に、小さな丸いものがひっかかっている。手に取ると、汚れていたが形に見覚えがあった。ドキンと心臓が大きく脈打つ。 震える指でそれを擦る。手が黒く染まるに連れ、土埃の下から本来の姿が覗く。 緑色の石の付いたピアス。 テッドの持つピアスの片割れだ。 恐らく夜の天体観測の際に引っ掛けて落としたのだろう。風雨と太陽に晒され真っ黒になりながらも、この石は三年間ここで待っていた。 テッドに見つけられるのを待っていた。 「アルド…っ…」 再び溢れて来た涙は、今度は悲しみや怒りの涙ではなかった。胸を突くような愛しさが、傷ついた心を優しく癒していく。 ――お帰り、テッドくん。 風に乗ったアルドの声が、テッドには聞こえる。 「ただいま…アルド」 再び揃った二つの石が、テッドの手の中でほんのりと熱を持った。 火が完全に消えた後、井戸水をかけ湿気った灰を土に埋め、テッドは村を後にした。 アルドの肉体が眠る地。だけどアルドの魂はここにはない。 包帯の下の血まみれの右手と、この風の中にアルドはいる。 風そのものが、アルドなのだ。 「このピアス、お前の故郷に返しに行こうな」 手の中で寄り添う二つの石に、微笑みかける。 「一つはお前の生まれた島に、一つは群島の海に。大丈夫、もう俺には形あるものは必要ない。そんなものがなくたって、お前の存在は感じ取れるから」 顔を上げて、広がる青空へと手を伸ばす。 共に行こう、群島へ。 俺達が出会った、あの海へ。 |