◇◇過去(テッドが来て二年目の冬)
大雪に見舞われた昨年とは違い、今年は例年通りの降雪量だった。
今年2回ほど降った雪は辺り一面を覆いつくす程ではなく、見慣れた光景を薄化粧する程度だ。
去年散々に雪遊びにつき合わされ、こりごりなテッドと裏腹に、シオンは雪雲が空に立ち込める度に銀世界を期待して窓にへばりついていた。
「あーあ、今回も積もらなかった」
遅めの朝食を取っているテッドの向かいで、シオンがつまらなそうに溜息を吐く。屋敷で食事を済ませてきたシオンの前では、お茶が湯気を立てている。
昨夜から降りだした雪は、明け方までに止んだらしい。目覚めてすぐ外を確認したであろう様子が容易に想像できて、テッドはくすりと小さな笑みを洩らした。
「残念だったな。この分だと日陰の雪以外は、昼までに溶けそうだな」
窓から差し込む光は、今日の快晴を伝えている。
「去年は一杯遊べたのに。これっぽっちじゃ雪合戦も出来やしない。雪も綺麗じゃないしさ」
シオンが両手で頬杖をつき、唇を尖らせる。
土が混ざってシャーベット状になった雪は、降っている時と違ってひどく汚らしい。今回のように量が少ないと尚更だ。
「去年が特別だったんだよ。グレッグミンスターはあんまり雪が降らないんだろ?」
「それはそうなんだけど……。昨日の雪はぼた雪だったから、積もると思ったんだけどな」
「また次に期待だな」
食べ終わった食器を重ねて台所に運ぶ。テッドとしては雪が止んで万々歳だった。寒いのは苦手だし、外見はともかく精神はもう雪遊びをする年ではない。
「で、今日はどうする?」
皿を水に浸して戻ってくると、シオンは椅子の背もたれにしがみつくようにして座っていた。
「シオン?」
「テッドは積もらなくてほっとしてるんだろ。あんまりノリ気じゃないもんね。いつも僕の我侭につき合わせてわーるかったねーっ」
いつものシオンらしくない、語尾を伸ばす言い方にぷっと吹き出す。
「何お前、拗ねてんの」
「べーつーにー」
これは完全に拗ねている。よっぽど雪遊びがしたかったらしい。
「じゃあ今度夜に雪が降り始めたら、次の日早く起きて遊ぼうぜ。朝早ければ、少なくても結構遊べるんじゃないか」
「ほんとっ!?」
甲高い声を上げて振り返った大きな目が、嬉しそうに瞬いた。
「ああ。男に二言はないぜ」
「約束だよっ。じゃあねじゃあねっ、その日は僕起こしに来るね!」
「……ベッドにタックルは止めろよ」
「判ってるよ」
椅子を抱えて、早く雪降らないかなーと心待ちにする様子が微笑ましい。シオンは年の割には少し幼い気がする。町の14歳に比べて、純真で素直な心を持っている。スレていないのだ。グレミオが手塩にかけて育てただけある。
そのくせ政治や軍略について語らせると、大人顔負けの理路整然とした意見を述べるので、普段とのギャップに驚かされる。
「今日は雪が中途半端に残ってて外で遊べそうもないから、宿題持ってきたんだ。テッド歴史得意だろ?教えて貰おうと思って」
シオンが足元に置いた鞄から数冊の本を取り出し、テーブルの上に広げた。帝国史、世界史、軍略、政治経済、心理学…いずれも子供が読むにしては厚く、内容も難しいものばかりだ。テッドは世界史の本を手に取り、ぱらぱらと捲った。
「感心感心。今世界史はどこをやってるんだ?」
テッドにとっては、この三百年の間に起こった出来事は見知らぬ過去ではない。実際に体験してきた者ならではの強みで、テッドの歴史に関する知識は時には本以上のものがあった。
「近代史に入って、今はグラスランドで起きた炎の運び手たちの反乱の辺り。首領タキは真の炎の紋章を宿していたってとこまで習ったんだ」
「……ふーん」
この事件の時、テッドはグラスランドから遠く離れた地にいた。その後彼の地を訪れた際に、生き残った者から何が起きたかを聞いている。
『突如燃え上がった火柱が、仲間も敵も、全てのものを焼き尽くした』
同じ真の紋章持ちであるテッドにはすぐ判った。
紋章の暴走。
巨大な力に振り回され、己を飲み込まれた結果。
ハルモニアとの平和協定の後、タキは歴史上から姿を消した。
「真の紋章って世界に27しかないんだよね。今知られているのは、バルバロッサ様の持つ覇王の紋章と、竜騎士団長の竜の紋章と、ハルモニアのヒクサク神官長の円の紋章、ハイランド王国建国の際、ハルモニアから寄贈された獣の紋章、ファレナ女王国の太陽の紋章、門の紋章一族が持っていた門の紋章、群島戦争後に行方知れずになったと言う罰の紋章…」
聞き慣れた名前に、テッドはぎくりと肩を強張らせた。
シオンの勉強が既に近代史に入ってくれていて良かったと、密かに胸を撫で下ろしたテッドである。嫌な思い出な訳ではないけれど、何も知らない顔をして触れる事はできない。
「真の火があるって事は、風、土、水、雷もある訳だ。それを足すと12個。後15個も知られていない紋章があるんだね」
「……そうだな」
自分の考えに夢中になっているシオンは、テッドの声が段々低くなっていく事に気づかない。
「真の紋章の持ち主って不老になるんだってね。覇王の紋章は武器に宿っているから、陛下は不老じゃないけど。……ずっと年を取らないまま生きるってどんな感じなんだろう。大切な人もみんないなくなって、それでも自分だけは年を取らないで……」
「ほら、宿題やるんだろ。さっさと片付けようぜ」
テッドが大きな音を立てて椅子を引き、腰を下ろした。
「あ、うん」
思考を中断されたシオンは、だがすぐに頭を宿題に切り替え、本に向かった。話題が逸れたことに安堵する。
これ以上この話題に触れたくなかった。今はまだ忘れていたかった。右手に宿る真の紋章を。
別れが近づいてきている事は充分承知していた。だからこそシオンと一緒にいる時だけは、自分が時の流れに取り残された存在であることを思い出したくなかった。




待望の雪が降ったのは、それから数週間後だった。
夕方、鍛冶屋に預けておいた武器を取りに行き、暫く話しこんで店を出ると、日が落ちて暗くなった夜空に真っ白な雪が舞っている。
「げ、もう降ってきたのかよ」
空模様から雪が降るのは判っていたが、その前には帰宅する予定だった。出された茶菓子が美味しくて、つい長居してしまった。
「まぁ、大した距離じゃないからいいか」
傘を貸そうかという鍛冶屋の主人の申し出を丁重に断り、マントを頭からすっぽり被る。雨ではないし、それほど濡れはしないだろう。
お礼を言って鍛冶屋を後にする。外に出ると、剥き出しの顔が吹き付けられる冷気でぴりぴりした。首に巻いている布を顔の辺りまで引き上げ、寒さをしのぐ。
白い息が夜の闇に溶けた。
(この調子じゃそこそこ積もりそうだな。明日は早起き決定か)
降り出したばかりの雪は、まだ地面にその姿を留めていない。地に触れると同時に消えていく。
雪は嫌いじゃない。暖かい部屋の中から眺めているだけなら、綺麗だと思う。
でもこんな風に雪の中にいるのは嫌いだ。隙間風の抜けるあばら家で、寒さに震えていた頃を思い出す。
まるで汚い物全てを覆いつくそうとするかのような白。美しいだけでなく冷たいそれは、必死で生きようとする小さな命を容赦なく奪って行った。翌朝冷たくなった、暖を取るための一晩だけの仲間を何度葬ったことか。
美しさに隠された冷酷さ。
淘汰されて行った命。
(……早く帰ろう)
足の指に力を込めて、地面を踏みしめる。
夜に降る雪はどうも感傷的になっていけない。昼間の雪なら何でもないのに。
少しでも明るい道を行こうと、大通りに面したマクドール家の前を通り過ぎる。
窓辺に映る暖かそうな明かり。二階のシオンの部屋は真っ暗だった。そろそろ夕食の時間だ。皆広間に集まっているのかもしれない。
今この家の戸を叩けば、笑顔で招き入れられるだろう。
「…………」
テッドの足は止まる事なく屋敷の前を通り過ぎた。
一歩、二歩、歩く速度が早くなる。
浮かんでくる思考を振り払うように足を進める。
一刻も早くこの場所を離れなければ。
自分の帰るべき場所はここではない。あの暖かい光も、笑顔も自分のものではない。
だって自分はたった一人だから。
これからもたった一人で生きていかなくてはならないのだから。




テオに与えられた住処が見えてきて、テッドの固く強張っていた頬がふっと緩む。
家に着いたら暖炉に火を入れて、お湯を沸かしてお茶を飲もう。昨日作ったスープがまだあった筈だ。あれも温め直して…。
こう寒いと具のたっぷり入ったシチューでも食べたい所だが、ここ数日寒くて買い物を横着した所為で、空腹を充たすパンすらない。今晩は薄いスープで腹の虫を宥めて寝るしかない。
「……え?」
誰も居ないはずの我が家に明かりを見とめ、テッドは目を瞠った。家を出てくるときはまだ明るかったので、ランプの消し忘れはありえない。
(泥棒か?)
こんな何も無い家に盗みに入っても仕方ないだろうにと、窓に近づき中を伺い見る。そこに見知った後姿を発見して、テッドはあんぐりと口を開けた。
慌てて入り口に回って戸を開ける。途端に室内から漏れ出す暖かな空気。中央の暖炉には火が赤々と燃えている。
「お帰り、テッド」
暖炉の傍に椅子を運んで本を読んでいたシオンが、振り返ってにっこり笑った。
「何でお前がここにいるんだよ…」
「雪が降ってきたから、今日はテッドの家に泊まろうと思って。そしたら明日の朝すぐ遊べるだろ?」
入り口で立ち尽くしたままのテッドに近寄り、シオンはマントについた雪を払ってやった。
「傘持って行いかなかったの?風邪引いちゃうよ。ほら早く暖炉の傍に行って」
テッドから濡れたマントを剥ぎ取り、暖炉の方へ押しやる。
今まで自分が座っていた椅子に強引に座らせると、ちょっと待っててと言い残し、シオンが台所に向かった。
暫くすると、湯気を立てたマグカップを持って戻ってきた。
「はい、ホットミルク。少しだけ砂糖を入れてあるから温まるよ」
「あ、ああ……サンキュ」
促されるままマグカップを受け取って、一口飲む。
からっぽの胃に甘く濃厚なミルクが染み渡った。
「温かい……」
「寒い日はこれが一番だよね。そうそうグレミオが夕飯にってシチュー持たせてくれたんだ。パンも焼き立てを持って来たから、すぐに食事に出来るよ」
「何で……」
まるでテッドの思考を読み取ったかのような行動に、愕然とする。
何故シオンはテッドが欲しいと思ったものをくれるのだろう。
家が暖かければいいと思った。温かい飲み物と食事があればいいと思った。
『お帰り』と迎え入れてくれる人がいたらと思った。
「テッド?」
カップを見つめたまま身動きしないテッドを訝しみシオンが顔を覗き込む。
「どうかした?ミルク熱かったかな。外から帰ったばっかりだから、熱い方がいいかと思ったんだけど温めすぎた?」
「いや……大丈夫だ。ありがとな、凄く嬉しい」
濡れた目頭をさり気なく拭い、顔を上げて微笑む。
「あー、腹減った。グレミオさんのシチューがあるんならすぐに食べようぜ。台所壊してないだろうな?」
「失礼な!ミルク温めるだけなら僕だって出来るよ!……ちょっと目を離した隙に、少しだけ噴いちゃったけど」
「牛乳噴かせたのか!?あれはこびりつくと掃除が大変なんだぞ!…まあ今回は美味しいミルクに免じて許してやるか。火を使う時は気をつけろよ」
こつんと拳で軽くシオンの頭を小突く。料理が壊滅的に苦手なシオンを台所に立たせるのは、かなり恐怖だ。
「判ってるよ。にしても台所すっからかんだったよ。僕が来なかったら今日何を食べるつもりだったのさ。買い物して来た訳でもなさそうだし…」
「んー、明日買出しに行こうと思ってたんだよ。残り物もあったしな」
「スープしかなかったじゃないかっ。もうっ、今度からそういう時は僕んちに来ること!テッド一人位増えたって平気なんだから。……テッドも屋敷に住めば、僕も心配しなくて済むのに」
最後は独り言のように呟く。どうせテッドが素直に来やしない事はシオンも判っている。
テッドがこの町に来てから二年が過ぎたが、未だに理由なしで屋敷に泊まりに来る事はない。
それが距離を取られているようで寂しかった。
「うん。……ほんとサンキュ。助かった」
「……僕、シチュー温めてくるね」
予想通り返事が流され、沈みそうになる気分を奮い立たせて笑顔を作ると、シオンは再び台所へと身を翻した。
深く考えるのは止そう。テッドがここに居てくれる、今はそれだけでいい。そう自分に言い聞かせて。
残されたテッドは、手の中のやや温くなったミルクをゆっくりと口に含んだ。
口内に広がる、ほんのりと優しい味。
またもや目が熱くなってきて、今度は乱暴に手で拭った。


与えられた優しさが温かくて。
一緒にいるだけで幸せで。
だからこそ。
もうシオンから離れなくてはならない。

宿主に近しい者の魂を好む紋章が、彼の命を奪ってしまう、その前に。